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うたかた

 海の底で、ひとりの若い人魚が頭の上に広がる景色を眺めていました。彼の目に映るのは、海の上からぼんやりと降り注ぐ光と、それを遮って影を落としながら泳ぐ魚の群れ。その間で水がゆったりと流れているのが、目には見えませんが、しっかりと感じられました。それから、遠くのような、近くのような、どこから響いてくるのかもわからない水のうなりが人魚の耳に伝わってきます。
 こうした景色は、人魚にとってはなんてこともない当たり前のもの。そんな景色を眺めていると気持ちが落ち着いてくるので、このヨハネスという名前の人魚は毎日のように光と魚と水の流れを静かに眺めておりました。
 ヨハネスはカレンという人魚に恋をしていました。その娘のお父様は人魚の王、つまり、カレンは人魚の姫君でした。六人いる人魚の姫様たち姉妹の中では一番末の、一番美しく、一番聡い娘です。そして、彼女の歌は他のどの人魚よりも素晴らしいもので、その魔法のような歌声にヨハネスはすっかり心を奪われてしまったのでした。
 しかし、カレンは姫君ですから、いつかはそれ相応の貴公子と結ばれることになっています。ですから、ヨハネスがいくら恋心を募らせたところで、その想いが叶うことはありません。
 それでもヨハネスは自分の気持ちを捨て去ることができず、胸がどんどん苦しくなるたび、こうして景色を眺めてどうにかこうにか落ち着くのでした。人間でいえば泣きたいような気分ですが、海の民は涙を流すことができません。ですから、ヨハネスは張り裂けそうなほどに切なさでいっぱいになる胸の苦しみを、景色を見るか、目一杯の速さですいすいと泳ぐか、そのどちらかで慰めようとするのでした。

 さて、人魚たちは十五歳になると、海の上の世界を見に行ってもいいことになっています。誕生日を迎えたヨハネスは、新しい気晴らしを探しに上の世界へゆらゆら泳いでいきました。
 水面から顔を出すと、空は夕暮れでした。水に遮られない夕焼けがヨハネスの目に眩しく映ります。その少し紫色を含んだオレンジ色がとても美しく思われ、ヨハネスはしばらく空を眺めておりました。
 時間が経つと、紫色はだんだん濃く暗くなり、夜がやってきました。星が瞬き、月がふわりと光を注ぎ、夜空は幻想的に浮かびます。
 空というものをまだあまりよくわかっていないヨハネスは、ああ、上の世界よりもっと上には、あんなに美しい海があるのだなあ、と考えました。今自分のいる海よりも美しい水に満ちていて、ずっと遠くまで届く輝きを持つ真珠が無数に光っていて、さて、あれはなんだろう、と月を眺めます。ちょっと見当がつかなかったけれど、クラゲと似ているように思われました。それ以上のことは何もわかりませんでしたが、上の海にはあんなに美しいものがあるのだ、ということだけはしっかりと心に刻まれました。
 こんなに美しい景色をカレン様にも見せられたらなあ、と、ヨハネスは知らず知らずのうちに愛しい相手を思い浮かべていました。
 彼女は賢くて考え深い娘だという話だから、あれが何かわかるのかもしれないし、僕よりももっと多くのことを思うに違いない。そうして、素敵な詩を作ったり、美しい声で歌ってくれたりするかもしれない。もし二人で景色を眺められたなら、それほど幸せなことはないだろうなあ。
 そんなことを夢想して、ヨハネスはまた胸がいっぱいになりました。それをどうにかしようと、首を軽く振りカレンのことを頭から追い出して、また夜空を見上げます。涙の出せない目で見上げる空は、今まで見た中で一番美しく、それでいてどこか寂しい景色に見えました。

更新日:2019-06-26 20:01:42

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