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風に舞う願いの名

 聖域と呼ばれる土地を守る守護者として君臨していた一匹の竜が息絶え、その魂が自らの後継として幼い命を残したことにより、運命は大きな変換点を迎えることになった。
 
『わたしの名前は、シエル。よろしくね、小さな守護竜さん』

 少女シエル。
 心の機微に敏感とされる竜を世話する役割を与えられたのは、共に聖域に身を置く一族の中で最も純粋な心を持つ者だった。
 親と呼べる存在の無かった幼竜は裏表のない彼女に次第に心を許していき、互いに心を通わせながら少しずつ成長していく。

『そうね……”ブリューケル”、という名前はどうかしら? 気に入ってくれると良いのだけど』

 親竜と同じく風を操る能力に長けていたことからそう名付けられた竜は、人間と関わっていくことでその心をも学んでいく。
 まだ守護竜となれる力の備わっていない自分を捕まえて悪事を働こうとする、人の悪意を察することが出来るようになるほどに。
 それでも、シエルだけは純粋にブリューケルの成長を喜び、共に笑いあうことの出来る半身のような存在として認識していたからこそ、自らに害を及ぼさない限り目を瞑ることにした。
 そうした平穏な日々は、無遠慮な来訪者の存在によってあっさりと終わりを迎えることになった。

『大丈夫よ、ブリューケル。貴方はわたしが守るから』 

 戦闘の経験も無い幼竜であれば捕えられると踏んだ外界からの侵略者が、聖域の内通者の導きによって侵攻してきた時、シエルはブリューケルを伴って聖域を飛び出した。
 聖域内に不穏な空気があったことを予め感じ取っていたのか、或いはブリューケルが目的であればそれが聖域内に居なくなることで侵攻の矛先を変えられると考えたのか、それは分からない。
 確かなことはシエルがブリューケルを守ることを優先して行動した結果、守護者の恩恵を完全に失った聖域が侵略者に蹂躙されてしまったという事実だけである。

『わたしが囮になるわ。貴方だけでも逃げて……お願い』

 外界に疎いシエルとブリューケルでは、既に包囲網を築いていた侵略者から逃れる術はない。
 しかし人である自分という枷が無ければ竜であるブリューケルはどこまででも逃げることが出来ると考え、シエルはその言葉を口にしたのだ。
 しかしブリューケルにとって彼女は自らの半身も同然であり、ここで見捨てて逃げる選択肢など選べる筈も無い。
 その躊躇が悲劇の引き金となった。
 裏切られた形となった聖域の生き残りが侵略者に加担し、シエルの足跡を辿って追っ手を差し向けていたのだ。

『裏切り者のシエル……か。恨まれても仕方ないよね、ブリューケルを守るために皆を見捨てて逃げたんだから』

 囚われ、見せしめに痛めつけられた少女は諦めの表情を浮かべ、それでも自らの選択を後悔することなく。
 そして、あっさりと死んだ。
 自らの半身を目の前で引き裂かれた痛みはブリューケルの中に芽生えていた穏やかな感情を塗りつぶす程のどす黒い衝動となって解放されていく。
 それが”怒り”なのだと教えてくれる少女は、もういない。

<何故だニンゲン……何故我から半身たるシエルを奪った……! 何故だァァァァァァァッ!!>

 風を操る力。
 自らを起点にして周囲の大気ごと呑み込み、収束し、そして感情のままに解き放つ。
 竜の肉体として留めていた力ごと、周囲一帯を巻き込む暴風に変換して解き放ったその一撃は、聖域を含め侵略者たちの集団や近辺の集落ごと根こそぎ吹き飛ばした。
 圧倒的な暴力の権化となったブリューケルは最早自我すらなく、ただ周囲の大気を取り込みながら暴れ狂う、際限なく世界を喰らう風の災害そのものである。
 その襲来を呆然と眺めることしか出来なかった人々は、まさしく世の終わりを悟っていた。
 だが奇しくも、守護竜によって守られていた聖域が消滅したことに端を発し、崩壊を始めた世界を繋ぎとめるべく抑止力が働くことになる。
 天より賜りし神霊の剣が、暴風の化身と化していたブリューケルの身体を貫いたのだ。

<世界が、我を拒絶するのか……構わぬ、シエルの居ない世界など……我は……>

 全ての力を封ずる霊剣によってその身を大地に縛り付けられたブリューケルは、その怒りや憎しみごと封じられる中、半身の名を呼び続けていた。
 既に失われた命が還ることはなく、故にこの世に留まる意図を見出すこともできす。
 ただその名を繰り返し呼びながら、封ぜられるままに意識を手放したのである。
 世界の風に、自らの半身を求める哀しき声と心を残しながら。

更新日:2019-06-08 21:32:37

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