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3.漱石は魂の存在を認めていたのか。自身の臨死体験とは。

挿絵 709*534

 絵画は「魂の浮遊」(漱石にインスパイされたホクサイマチスの作)

 結論を先にまとめると、漱石は自身が臨死(近似死)体験をしていたので、臨死を認めていた(エッセイの「思い出す事など」)。この体験の直後に俳句の形にしてそれを表していた。では魂の存在についてはどうであったのか。自身が病床に置かれた肉体から離れて、移動して暗い空を浮遊して行ったと記録しているのであるから、その移動の実体は魂ということになる。天の川(三途の川のことと思われる)の近くまで到達したことを記している。

 漱石は大吐血をして意識を失った事件(修善寺の大患)の前後のことをまとめた「思い出す事など」というエッセイを書いている。この中で病床で意識を失ってからの仮死状態(臨死)のことを魂、霊ということを言葉を用いてこの体験を認めている。自身の存在が浮遊したことによって肉体とは別の存在を認めていたといえる。
 だがこのエッセイでは浮遊し始めた状態は正確に記述されているが、その後のこと、および具体的な内容は意図的に割愛されている。おまけにこのエッセイの中で、先に作っていた、天の川(三途の川のことと推察)の近くまで浮遊した内容の俳句の一つをとりあげて曖昧な解説を加えている。修善寺の宿に挨拶に来た東洋城との別れに影響を受けたようで、よく覚えていない、よくわからないと曖昧な表現で自身の臨死体験をぼやかした部分を設けている。つまり鋭い記憶力を示して初期の臨死体験をある程度記述した部分とぼやかした部分とでバランスを取っているとも言える。出版社、新聞社対策なのであろう。だが、漱石はこの落とした部分をいくつかの俳句としてまとめて記述しておいた。したがって、「思い出す事など」の文章と臨死体験直後の俳句群を併せ読みすれば全体が明確になると考える。

 この一貫していない曖昧な態度は、この臨死体験の話題が明治43年、44年当時の日本においては、触れないことが好ましいという風潮があったならば、当時(今も残っている)人気作家であった漱石の態度はある程度理解することができる。
 
 では漱石の魂についての考え方と臨死体験の実態についての推理を始める。その第一歩として内心を正直に記していた俳句を検証する。

 漱石は明治43年に重症化した胃潰瘍の病を癒すために、伊豆修善寺温泉に行って菊屋という旅館の別館に長逗留することにした。しかし、ある夜大喀血を起こした。これが修善寺大患と言われる事件である。生死の境をさまよっているときに東京の掛かりつけの長与胃腸科病院から医師(杉本副院長と森成医師)が派遣され、16本以上のカンフル注射を受けてこの世に舞い戻る事ができた。妻たちが枕元で漱石の名を呼ぶ中のことであった思われるが、これによって意識を回復した。その後漱石は妻から30分間は意識がなかったと告げられたことで、漱石は記憶を辿るなかで臨死体験をしたということを理解した。カンフル注射を打ち続けた森成医師の回顧文には「仮死状態に陥り、脈搏がバッタリ止ってしまった。」とあった。
 
 この無意識状態の中で漱石は体験したことを三つの俳句にまとめていた。文学者であり理系の頭を持っていた漱石は強烈な記録魔でもあったのだ。貴重な体験を書き残そうとして当時肉体が異常状態にある中で、そして頭脳にもノイズの発生がある中で起こったことを夢中で記憶していたと思われる。

 以下の3句は「漱石の500句」の中に組み入れていたものであるが、ここにそのまま引き出して並べてみる。

(1) 「明け方戸を明ける時の心持」 (登録番号:38)
      (あけがた とをあけるときの こころもち)
      天の河消ゆるか夢の覚束な
       (あまのがわ きゆるかゆめの おぼつかな)
         (明治43年10月2日)

 大量に吐血して意識を失った漱石、そしてその漱石の枕元にいた人たちも漱石の命の火は消えるものと覚悟した。その後、魂は天の川(三途の川のことであろう)にたどり着いたものの、妻のいる地上に戻ることになった。覚悟して近づいた天の川は遠のいて見えなくなり、命は助かった。しかし妙なもので今は幾分心残りであり、少し不安になっているようだ。

 ちなみに魂については、大正3年11月13日付の岡田耕三宛の漱石の手紙の中で「・・・意識が生のすべてであると考えるが、同じ意識が私の全部とは思わない。死んでも自分はある。・・・」と書いていることから、この句を作った当時も魂の存在を明快に認めていると思える。

 

更新日:2021-05-08 07:50:06

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