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ココア

 冷たいココアを飲んでいた。

 この夏は口臭がココア臭いと鼻をつままれるほど飲んでいた。

 今日の太陽は真夏日よりは厳しくはなくて、それでも頬に一滴の汗が流れ、

 脇汗は引くぐらい滲んできた。

 わたしは長い髪をかきあげて、ココアを渇いた喉に流し込んだ。

 わたしにとってもよく似た笑顔で母が買ってきた花柄のワンピースを着て。

 海の匂いが流れている街で。

 心から好きな歌手が活動終了したから……米津玄師に鞍替えしようと青空を睨んで涙を浮かべていると、

 足元に転がっていた石に不注意にも引っ掛かり、盛大に転んでいた。

 ココアもカンカンと音を立てて転がっていく。

 わたし自身も二回転ほどコロコロ転がり、熱い道路の上で焼肉状態。

 わたしの数歩前を歩く銀縁メガネを掛けた祖父は、笑いながら近づいてきて手を差し伸べてきた。

「ココア全部こぼれちゃったね」

 祖父は膝をまげ腰を落とすと、わたしをおんぶしようとした。

 わたしは「いいよ」と笑って、脇汗がすごいからと断ったけど、わたしと同じく頑固な祖父は腰を屈めたまま動こうとしなかったので甘えさせてもらった。

 祖父は転がっていたココアの缶を拾い上げると力強く体を起こした。

 坂の多い海の見える街。

 それがわたしの故郷だった。

「転んでジュースこぼすなんて何年ぶりだよ」

 祖父の少し小さくなった背中に顔を埋めて言った。

 祖父は顔をこちらに向けると眩しそうに目を細め笑って。

「なにが飲みたい?」
 
 わたしを見て笑いながら言った。

「もう十分よ」

 わたしも笑って答えた。

 わたしをおんぶする祖父が夏の日差しを遮ってくれた。

 夏の大きく包み込むような風が懐かしい風鈴の音を運んできてくれた。

 少しの間、祖父の背中に顔を埋めていた。

 わたしの胸に差す痛みはなんとも言葉では言い表せなくて胸が詰まった。

 わたしはありがとうと言って、祖父の背中から離れて地面に立った。

 
 ……前だけを向いて坂を上りきって短い髪をかきあげれば、遠目におばあちゃんとおじいちゃんのお墓が見えてきた。

「おじいちゃん、おばあちゃん」

 と呟きながら一歩ずつ坂を下っていけば、波の音も近づいてきて、

 どこまでも続くような青く澄んだ夏の空を見上げた。

 何時だったか母から貰った花柄のワンピースが風に揺れた。

 あれはいつの夏の記憶だったのか。

 あの祖父の背中は。

                 
                      完

更新日:2019-01-26 12:55:52

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