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四(続の続)

 だが、外に逃げたとしてどうだろう。
 コンビニの背後は山地で、勾配のきつい山道を追われながら走っても無人のお寺しかなかったし、正面の住宅地に通じる橋はおりからの台風で川が増水し水没状態、そこからは行き止まりだ。
 店長も帰ってこられない。
 警察を呼べたとしてもすぐには駆けつけられまい。
 ヘコムの警備システムもまるで役に立たない。
 今の彼女はまったく孤立無援の状態にあったのだ。

 かくして。壁際に追い詰められたカスミには、まったく逃げ場がなくなった。
 絶体絶命だ。
「はあ、はあ、はあ……」
「これで、買った豆腐は全部、返品してやった」
 もはやカスミは泣きじゃくるようだった。へなへなとへたり込むしかない。
「あ、あの……お代金は全額、お返ししますから……どうか……どうか、お引取りを……」
「金? いらんよ」
 あれだけ動きまわったのに、豆腐男の呼吸はたいして荒れていなかった。態度はあくまで平静だ。
「代わりに、肉を持って帰るぞ」
 肉?
 カスミは恐怖に顔面を引きつらせながらも、きょとんとなるほかなかった。
「俺はカバンにいっぱい豆腐を持ってきた。今度は、カバンいっぱい肉をもらって帰る」
 そんなこと言われても……。この店では肉製品といえば、ウインナやジャーキーくらいしかおいていない。
「あの……うちでは、お肉は……」
「いいから、肉をよこせ」
 まったく感情を外にあらわさない顔で、豆腐男が迫る。
「ここにあるじゃないか。大きな、生きてる肉が」
 生きてる肉って……。
「おまえだよ。来るんだ!」
 ついに豆腐男は本性をあらわにし、カスミにつかみかかってきた。
「ぎゃーーーーっ!」
 カスミにできたのはジタバタ暴れ、相手が目的を遂げるのを遅らせることだけである。
「おまえを、この中に詰めて帰る!」
 力ずくで思うがままにされた状態のカスミはとうとう、スーツケースに! あのスーツケースの中に! 頭から突っ込まれた!
「ぐえっ! ぐえーーっ!」
 かくなるうえは、嘔吐とも悲鳴ともつかない、しぼり出すような絶叫として恐慌ぶりを表現するばかり。


 そのとき。
 異変が「ドラッグ24」を襲った。
 豆腐男ですら予想できなかったこと。
 増水した川からあふれ出した水が濁流となって、洪水のように店めがけて押し寄せてきたのだ。
 建物を呑み尽くすほど大量の水が、ガラスの壁面をぶち破り、ドワーーーッとなだれ込んだ。
 一瞬のち、停電となり照明がすべて消えた。
 浸入した水の流れは反対側のガラス壁をも押し割るほどの威力を示し、店内を急流のようになって通り抜けていく。

 暴力的な水圧に、重くて頑丈な陳列棚がまるでドミノのようにはじかれ、押し流され、食品や雑貨類を大量に撒き散らしながら激しくぶつかり合った。
 豆腐男がこの期におよんで、どんな反応を示したかはわからない。
 声すら発した気配がなかった。
 カスミはといえば。ほぼ全身をあのケースに収納されるという恐怖の絶頂にあったのだから、何が起きたかどころではなかった。
 とはいえ。豆腐男の身をひとたまりもなく吹っ飛ばして押し流したに違いない溢水の打撃を、同じ場にいながらカスミのほうは被ることから免れていた。
 幸か不幸か、体を逆さまに詰め込まれた堅固な造りのスーツケースが防具となって、水流による強烈な破壊力を緩衝する役目を果たしたのだ。
 ケースはびくともせずに、カスミの体をくわえた格好でどんぶらこと浮かび上がった。
 しかしそのままでは、濁流に流され、反対側の出口から持っていかれてしまう。
 僥倖にもスーツケースは、水流で押しやられた陳列棚が寄り合ってバリケード状態になった上にポートが座礁するように乗り上げ、横倒しになった。
「グエ! グエッ!」
 足場の感触を得るや無我夢中で蛆虫地獄から這い出た彼女は、見るもおぞましいスーツケーツを蹴り飛ばすと、自分のおかれた状況をもはや驚きとも感じず――豆腐男に誘拐される以上の驚きがあろうか――水流の激しさに必死で抗いながら、半端な将棋倒しのように列をなして傾き、積み重なった商品棚の骨組みに華奢な両手と両足で懸命にしがみつく。
 髪も着衣も濡れそぼり、あのカスミがと思うほどの凄い形相で踏ん張り続けた。
 台風が荒れ狂う中、それも真暗闇の破壊された店内で、ただひとり。

更新日:2018-09-07 19:32:27

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