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小説

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第一章 兄とはじめる新生活

 佐光由衣は感慨深げに築年数四十二年のアパートを、大きな茶色の瞳で見上げる。今日、由衣はこのアパートの一室から全ての荷物を運び出した。

 十一月になったばかりの秋の風は少しずつ冷たくなっていて、冬の気配を運んでくる。冷えてかさついた指先をそっと擦り合わせた。
 このアパートの一室で由衣は生まれ、母の手で二十歳まで育てられた。父は由衣が物心付く前に亡くなっていて、写真でしか顔を知らない。それでも母は父の分まで、強くやさしい愛情でもって包んでくれたのだ。

「由衣。もういい加減にしてよ」

 二tトラックの前で腕組みをした母は、呆れた声で由衣を振り向かせた。

「だって、もうここには帰って来ないんでしょ?」
「そうだけど、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう?」

 近づいてきた母が隣に立った。そっと肩を抱かれて、由衣の胸に哀愁が押し寄せる。

「……うん。そうだよね」

 母は今の由衣と同じ二十歳で子供を産んだ。四十歳の彼女はとても若く見える。由衣の隣に立っても全く違和感なく。
 ここまで育ててくれた母には感謝しかなかった。看護師の彼女が必死で一人息子の由衣をここまで大きくした。自分の幸せなんて二の次で。

 だから母がいつか、由衣の新しい父親だよ、と男性を連れて来たときは、絶対に反対はしないでおこうと決めていた。例えどんなに由衣が気に入らなくても、母が心で選んだ相手ならば賛成しようと。
 そんなませたことを考え始めたのは、思春期に入ってすぐの頃だった。しかしずっとずっと先のことだと思っていたそれが、つい先日、現実のものとなったのだ。

 母が誰かと交際しているのは薄々気付いていた。しかしまさか十五歳も年上の人を連れてくるとは思わなくて、由衣はさすがに驚いた。しかしその人は五十五歳にはとても見えなくて、温和で人当たりのいい男性だった。なによりも母を愛していて大切にしていることを真摯に伝えられ、この人なら母を幸せにしてくれるだろうと、由衣はそう思った。

「幸せになってよね」
「誰が選んだと思ってるの?」

 母が冗談っぽく返してくる。由衣の脇腹を軽く突き、安心して、と言わんばかりのそれに少し泣きそうになった。
 黒ずんだコンクリートの外装に、小さな窓が幾つか並んでいる。窓の外側にはフラワーボックスが付いていて、本来なら季節の花を並べるところだ。しかし由衣はそこに小さな菜園プランターを置いて、プチトマトやキュウリ、ナスなどを育てていた。

 もちろん家計を助けるための菜園で、その種は自分のお小遣いから出して買っていたのだ。
 今はそのフラワーボックスにはなにもなく、ただ殺風景な窓とシャンパングレーのボックスがあるだけだった。それを見つめていると、裕福ではなかったけれど、楽しく穏やかな生活がそこにあったのを思い出す。胸の奥がきゅうっと痛くなって、由衣は思わず唇を噛み締めた。

「じゃあ、行こうか」
「うん」

 母に促されて由衣は生まれ育ったその場所を去った。これからは新しい生活が待っている。ただし、母との二人暮らしではなく、義兄との二人暮らしだ。

「僕、大丈夫かな……」

 そんな不安が口を突いて出た。母には聞かれなかったのでホッとしたが、正直、新居での生活には不安しかない。
 母が再婚を決めて半年の間に、慌ただしく彼らの新居が決まった。今までとは比べものにならないくらいの高そうなマンションの一室で、母の新しい夫である佐光貴史と二人で新婚生活を送るらしいのだ。

 ――広いし、由衣の部屋もあるし、一緒に住んだっていいのよ?

 母も貴史もそう言って両手を広げてくれた。しかしさすがに、そこまで甘えられない。母の第二の人生。まだまだこれから幸せを謳歌する母の邪魔だけはしたくなかった。

 そうなると、由衣はおのずと一人暮らしをすることになる。多少の仕送りをしてもらうにしても、半分くらいは自分でなんとかしたかった。そのつもりでバイトを探していたが、なかなか由衣が出来そうなバイト先が見つからず、だったら……と貴史に思わぬことを提案された。

 ――由衣くんさえよければ、息子の壱也のところに移り住んではどうだろう? あそこは敷地ばかり広くてあまり手入れをしていないけれど、二人くらいなら難なく住めるよ。

更新日:2018-08-16 13:00:31