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始まりのシミュラクラ現象

高砂や  この浦船に帆をあげて

何となく雑音が重なり、そう聞こえてきた気がして洗い物の手を止めた。


 昔TVで見た、角隠しに白無垢の女性の横顔が思い浮かんだのだが、大型乾燥機の送風の音に、節水蛇口から勢いよく流れ出す軽い水音、そして、通路の奥向こうからはナースコールが聞こえているこの場所には、そんな厳かな雰囲気は微塵もない。
しかし、なぜか そう聞こえる気がする。

 気のせい・・・ は、虫の知らせ、かも。

って事は、1年間程いなかった彼氏ができて、さらには結婚とかしちゃうのかな、と飛躍的な妄想癖をフル回転し瞬間的に脳内はハッピー色に染まったのだが、あぁダメダメ只今仕事中。でもでも 高砂やって、今時の結婚式でも使われてるのかな。インスピレーション湧いたって事は、やっぱり・・・

 そんな事を思いながら意識的に振り向いてみると、床上約12センチ位の壁の一点に視線が吸い寄せられた。

「何これ、かわいいな。キツネちゃん・・・みたい。」
シミュラクラ現象なのか。何かの液体が飛んだらしく3つの点がキレイなバランスで並び、顔のようにみえる。少し離れたところにもう1つ同じような点があり、仲良く向き合っているようなカンジになっていた。
 
「かわいいけど・・・でもごめんね。こういう汚れを掃除するのも仕事のうちなのです。」
洗い物の容器を、水受けがわりに敷いていたためにちょうどいい湿り気になっている雑巾をつかむと、指先に力を込めた。
「こっちの子は、狸みたいだな。」

 ガス臭いような錆びた鉄のような臭いが立ちのぼる。こびり付いた汚れにしては意外とあっさり消えた。が、冷たいドロリとした感触がしてきて、それが雑巾越しに指先からスルリと体に染み、瞬間鳥肌が立ちブルっと震えがきた。痛かった訳ではないのに、手をブンブンしたくらいに。

 何だ? この感触。

冷たさを感じた指先には、全く冷えなどはない。異常はないようなので、残りの狐を消しにかかろうとした時、ポケットの中のピッチのバイブが唸りだし、同時通路の先から声も聞こえてきた。
「助手さーん。千紗さーん。一人 レントゲンに連れてってください」
「あ、はーい。」

 よく分からない汚れをふき取った雑巾はそのまま持ち出し、途中のランドリーバッグに放り込んだ。やはりさっきのは気持ち悪い感触で、その雑巾をそのまま使う気になれなかったからだ。



 洗い物を中断した部屋は、乾燥機の送風の音だけが単調に、静かに響いている。


 機械の音だけが響いている・・・ のだが、目には映らない微細な粒子が空気中に漂い、そのためなのか感覚的に静かな部屋とは言えない状態だ。それは埃とも違うモノのようだ。
 それらは雑然と舞い漂いながら壁に吸い込まれていくのだが、ケアで使った湯の入ったボトルや汚れたシーツを洗いに出しに部屋に入ってくる看護師が立ち去ると、また濃度が濃くなるり、するとまた、静かに壁に吸い込まれていく。吸い込まれていく壁には、あの シュミラクラ現象のキツネがいた。

 何かの汚れで出来ているらしい3つの点に、今はぼんやりと顔の形っぽく薄いシミが浮かび上がり、それは想像力を働かせなくてもキツネか、シベリアンハスキーっぽく見えるようになっていた。

  
 キツネの無機質なまんまるな目が命を得たかのようにクルリと動いた。
『・・・嫁さまが さらわれた。』

 どうしたらいい? どうしたらいい?
 盗られた嫁さま
 取り戻す?
 取り戻せる?
 取り戻そう 取り戻そう・・・


 今度は、そう 聞こえてきているのだが、何人もの看護師が出入りしたが、その声にも、まして壁のキツネにも、誰も気が付くことはなかった。







 

 





  


更新日:2018-06-17 01:31:37

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