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小説

携帯でもPCでも書ける!

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はっ! と我に返る。

上品な香りと、ロココ調のインテリア。状況が把握できない。

体を起こすと、ベッド脇のチェストにメモ書きを見つけた。

「お寝坊さん、起きたら携帯鳴らして。 健一郎」

思い出した。ここは健一郎の実家。女将に会いにきたのだった。

完成した新館へ行くと、スタッフ総勢で出迎えられ、

挨拶もそこそこに過呼吸で気を失った。気が遠くなる中、

(健一郎さんの婚約者)

(若女将さんになる人)

そんなひそひそ声が頭の中にこだましていた。


お昼を一緒にと誘われていたのに、部屋はすっかり夕方の色だ。

オレンジの壁に、私の影が映る。


健一郎は、今朝帰国したその足で迎えにきてくれた。

いつも自宅近くの公園駐車場で待ち合わせる。

知らされた時間に歩いて行くと、彼の定位置に既に車はあった。

木々も青空も綺麗に映すほど、磨きあげられた車でいつも来てくれる。

私の姿をルームミラーで見つけると彼は出て来る。ほら、ドアが開いた。

「あ、眼鏡は?」
「第一声、それ? ヘルシンキから帰ってきたのに」
「ごめん。お帰りなさい」
「今日はコンタクトだよ」
「あっ!」

いきなりのキス。抱きしめられ、彼の香水に包まれた。

「俺も、一緒に泊まるから」
「え?」
「だめ?」
「ううん、……急に言われて、びっくりしただけ」

そうじゃない。驚いたのは彼が自身を『俺』と表現したことだった。

しかし、それ以上に次の台詞には胸を突かれた。

「夕子の過去、消してあげる」


過去。

拓海と堕ちた日々。

ああ。

調べたんだ――。


「ごめん。意地悪を言うつもりじゃないんだ」

運転席から、彼が手を握ってきた。

「女将さんも知ったんでしょ?」
「女将は、そんなこと気にしない」
「じゃあどうして調べたのよ!」
「社長が勝手に手配したんだよ」
「お父様……」

ずっと気になっていた。彼は母親を女将と呼び、父親を社長と言う。

「ただ、嫉妬はある。俺だって男だから」
「ごめんなさい」
「だから、今夜、夕子を抱きたいんだ」

繋いだ手は温かく、愛情に満ちていた。

彼の香りに包まれ、瞼を閉じる。

もう何の迷いもない。彼と、結婚したい。




 確かに、数時間前はそう思っていた。

心から。

でも今は――。

壁に映る長い影。

拓海の狭いシングルベッドから、二人の影が壁に映っていたあの日々。


健一郎の番号を表示させ、点滅を待った。

「泊まるのをやめたいの。駅まで送ってくれない?」



更新日:2018-04-02 18:02:42