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拓海

二年前、オレは転落事故から奇跡的に生還した。

しかし、数日は記憶が定かでなく、免許証から実家に連絡が行った。

親父はオレの生死など興味がないらしく、

別れた元妻に全てを任せた。久しぶりに再会した母親と妹の看護のお陰で、

オレは記憶を取り戻したと言っていい。

若女将の手足となって働く仲居、柚羽はオレの妹だ。

「おにぃと若女将、くっつけてあげる!」



彼女はうまく旅館に入り込み、若女将付きの仲居になるまで月日を要しなかった。

とはいえ、若女将よりも新しい顔の仲居は柚羽しかいなかったから、

それほど策に労することはなかったらしい。



今まで柚羽がやってきたことはたった一つ。

それは、若女将に健一郎への不信感を抱かせることだ。

健一郎の行動を仕入れ、それとなく若女将に知らせ、不信感を煽る台詞を耳打ちする。

オレの記憶障害も、柚羽の入れ知恵だ。

ユウコの傍に居たかった。

オレは柚羽の言いなりに、偽造履歴書を持って旅館を訪ねた。

『広沢』は母親の旧姓、『ユウ』はユウコから取った。



あの日、柚羽の代わりにユウコを若女将として迎えに行った時、

あの動揺を見て、ユウコを連れ出せると確信した。しかし柚羽からストップがかかった。

「だめ! おにぃはいつも早まって失敗してるんだから!」

確かにその通りだ。

今日の面談でも、家族構成を聞かれたら妻が居ると答えろと柚羽は言った。

その通りにしたが、

オレ、広沢ユウを拓海だと確信したユウコの心中を思うと、オレの心も穏やかではいられなかった。

いつも早まって失敗するオレ――。



「ユウコ……」


オレは思い切って、しかし小さく呟いた。

ユウコの表情がみるみるうちに私的に変わる。若女将から女の顔へ。


「やっぱり、拓海じゃない――。思い出したのね」

ユウコ。

ユウコ。

ユウコ。


ごめん、ユウコ。ずっとオレはユウコのそばに居たいんだ。


だから、広沢ユウだよ――。






やっと見慣れてきた和服姿が、徐々に離れて行く。

暗闇に吸い込まれて、オレの前から消えた。







更新日:2018-04-16 13:59:39

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