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小説

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40.あらたうと青葉若葉の日の光(松尾芭蕉)〜

挿絵 567*352

   ホクサイマチス作「緑の送り主」


40.   あらたふと青葉若葉の日の光
       (あらたうと あおばわかばの ひのひかり)
         松尾芭蕉 (曾良書留、元禄2年、「奥の細道」)

 日光東照宮の奥の「裏見の滝」あたりを芭蕉は歩いた。徳川の世になって世情は落ち着いて、山の葉にも大権現の威光が及んでいると感じながら歩いた。

 「あらたふ」は「霊験新た」が語源になるのであろうが、日光は古くから密教の霊地であることを意識した句になっている。この句を作った旧暦4月2日は新暦の5月連休あたりであろうから、木々の新芽が出るころだ。山の勢いを山の神のおかげとしたのが芭蕉らしい。実際に二荒山神社付近はいわゆるパワースポットとして有名になっている。
 そうであるからこのあたりの木々にも山の神の力が及んでもおかしくないのかもしれない。これが特別に若葉が光を発する場所、または光が溢れる日光という地名の謂れになっているのも頷ける。青葉若葉は二荒山神社の境内の外の杉並木の緑ということになるが、陽の光で輝いているという受け身の光ではなく、光を発している。家康公の威光が全国に及ぶことを掛けている。

 とにかく、冷静な観察者である芭蕉が小躍りするかのように、自然の輝きに驚嘆しているのがおかしく面白い。「あらたう」は下草の豊かな自然林の山肌に日の光がまだらに差し込んで綺麗であるという意味も含まれているようだ。

 現代人は若葉、新芽の山肌を見て、「山笑う」と決まり文句のように表現するが、これでは詰まらなすぎる。そのような自然を目の前にして圧倒される自分を意識する芭蕉の方が素直で素晴らしいと感じる。それによって読む方も気分が新たになるというものだ。何より日本の自然の山を常緑木と落葉木の混交林であるという事実を「青葉若葉」という造語で表し、これが山を光らせるのだと見ぬいている目がすごいのだ。

 平成25年に見つけた本に、故やなせたかしが漫画を添えていた芭蕉の句の中にこの句を見つけた。その時の感想としては「あらたうと」が気に入って、「あらよー」の掛け声が感じられた気がして威勢のいい句と感じた。

*後日、ひょんなことから「あらたう」は「ふたあら」(二荒)の語順を変えて遊んでいると知った。やはり芭蕉は言葉遊びの達人であった。




41.   荒物屋の奥に吊るせし老婆かな
       (あらものやの おくにつるせし ろうばかな)
         倉阪鬼一郎(「悪魔の句集」より)

 コンビニがない寂れた田舎町のバス通りにある荒物屋には奇妙な古い物が吊り下げられて売られている。手ぬぐい、竹箒、熊手、軍手、ねずみ捕り、月餅、切り干し大根、蚊取り線香、田舎の生活には不可欠な品物が並べられている。大きめの品物は天井から吊り下げられている。大きめの品は売れ残っていることもあって日焼けして退色している。作者はこれらのものは老婆のようだという。

 店の奥に客が来ていることを知らせると枯れた返事がする。吊るした品物をかき分けて店を守っている老婆がゆっくり出てくる。

 出てくる老婆は釣り下げられて売られている商品のように見えると作者はニンマリする。ゆっくり出てくるさまが埃をかぶって売れない商品と同化して見える。この老婆のいる荒物店は商品を売っているようには見えない。田舎の時代博物館である。

 この句の面白さは、よろず屋と言わずに荒物屋を選択したことである。この荒物と老婆がマッチしているのだ。そして吊るし売りという表現が効いている。ファッション衣料の店でも吊るし売りというのであろうが、荒物屋で用いると凄みが生じるから不思議である。



更新日:2018-08-01 04:55:43

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