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挿絵 800*592

   ホクサイマチス作「もみじ川」 


39.   嵐山藪の茂りや風の筋 
       (あらしやま やぶのしげりや かぜのすじ) 
          芭蕉(元禄四年、「嵯峨日記」)

 衆道であった芭蕉の晩年の相手は芭蕉が万菊丸と名づけた杜国(名古屋の豪商で、自らも万菊丸を名乗っていた)であった。米取引の不正取引の咎で流刑になって三河の伊良湖付近にいた杜国を訪ねたあと、会えるように仲介した越人と三人で奈良・須磨・京都へ旅に出かけてしまった。「恋の逃避行」である。その後、流刑地に戻った杜国は、その地で没した。そのまだ若い杜国が死んだという知らせを京の嵯峨で知った芭蕉は、嘆き苦しんだという。その時の句がこの激しい句であったと推察する。

 現在、伊良湖の寺では美貌の杜国を偲んで俳句大会が開かれているという。そして、万菊丸ゆかりの三河の地は今では電照菊の一大産地になった。しゃれのような話である。(「芭蕉紀行」:嵐山光三郎・著)当時の衆道は、男女の恋愛と同じように普通のこととして世にあった。であるから杜国に万菊丸などという愛称をつけたりできた。菊は文字通り肛門の紋様と類似している。そして万菊丸の名は男色者であることを堂々と周囲の者に知らせていたことになる。

 芭蕉のその万菊丸に対する想いがこの句を作らせたのでないかと思う。単に嵯峨の地で見た嵐山に風が吹くだけの風景ではないはずだ。
 風光明媚な嵐山の天辺から強風が吹きつけ、風が吹き抜けた筋、つまり風の道が見えたということだ。藪が撓って分かれた「風の筋」が生じたと描いたのだ。藪とは篠や雑木の密集したところであるが、当時芭蕉は嵯峨野にいたのでこの藪は嵯峨の竹林を指したとすると、太い孟宗竹の林が吹き分けられることになり、この「風の筋」は木や枝が揺さぶられる状態を通り越している。もしかしたら、風など吹いていない嵐山に芭蕉が想像の最強の豪風を吹かせたのかも知れない。
  
 以上のことはホクサイマチスの想像であるが、見方を変えて検討してみる。これまで描写を貫いてきた芭蕉がこの俳句を書き残したのであるから、芭蕉は実体験をこの俳句に表したということになるとどうなるか。芭蕉はこの風の吹き荒れる嵐山がよく見える近くの嵯峨野に立ち、傘など吹き飛ばされる台風並みの風を自分も体に受けていたことになる。人がこのようなことをする場面は、大失恋の時か、最愛の人を亡くした時ということだと思う。

 この句を読んで「風の筋」を風向きがわかる程度の葉の動きと取るか、風が作る筋目として理解するかによってこの芭蕉句の理解が異なってくる。ホクサイマチスは、言葉に厳格な芭蕉であることを勘案すると誇張を込めた後者が妥当と考えた次第だ。ついでに言えば前者の藪の中を風がさっと流れる程度の情景俳句を、あの芭蕉がつくることは無いと考える。つまり平凡すぎる句になってしまうからだ。

 杜国が死んだという知らせを京の嵯峨で知った芭蕉は、風が吹き抜ける竹林の中の庵から出て、竹林の中で慟哭する声を吹き抜ける風音で消させて人に聞かれないようにしたのかもしれない。その声が竹林に「風の筋」を作らせてのかもしれない。モーゼ一行がエジプトからの脱出の際に起きたという海水移動の海渡りを想起させる。

 杜国への思いをあからさまに書き表わすことができない芭蕉の苛立ちと表現者の工夫がこの俳句に見える。最愛の人の死は、芭蕉を相当弱らせたと想像できる。この三年後、芭蕉は大坂で病に倒れて51歳で没した。
 単なる「わびさび」の芭蕉ではない激情の芭蕉がここにはいた。人間としての芭蕉がいた。静かな京の嵯峨の地にいた芭蕉の心には嵐が吹きまくったのだ。




    

更新日:2018-07-01 07:19:02

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