• 1 / 24 ページ

(1)今更何の話?

 商店街の中にあるカフェに出勤する途中で、暢之は駅前の本屋に立ち寄った。暢之は目的の雑誌を探すことなく、入り口付近にある書棚に置いてある小説雑誌を手にした。大学時代から60歳になった今まで、暢之はもう40年近くもこの動作を繰り返していた。

暢之は手にした雑誌を捲って、投稿作品の懸賞小説応募結果が出ているページを見開いた。当然過ぎるほどに、そのページに暢之の名前はなかった。もう落選がこれほど繰り返されていると、雑誌の当選発表のページを見る前のドキドキ感は全くなくなっていた。

暢之は本屋を出るとまっすぐにカフェに向かった。暢之が今から行くカフェで働くようになったのも大学時代からだった。大学時代からいずれは物書きなりたいと考えていた暢之は、出版社でアルバイトを始めた。だがそのアルバイトで暢之は運命的な出会いに遭遇することとなった。

アルバイトを始めていた出版社である日、暢之はある小説家の家に原稿を受け取りに出向く用件を頼まれた。暢之が小説家冨樫と出逢ったのは、その時が初めてだった。恐らく年齢的に一回りくらい上だった冨樫は、その時から暢之を出版社との原稿用紙の受け渡し役として指名した。

冨樫は暢之が大学時代にフォークソンググループの一員として、ヒット曲を飛ばしたことを知っていた。元々物書きになりたいと考えていた暢之は、ヒット曲の作詞を担当していたがそのグループからすぐに脱退していた。他のメンバーは最後の最後まで一緒にグループを続けようと声をかけてくれたが、暢之の気持ちが変わることはなかった。

大学に入学したばかりの暢之は、ギターが弾けると理由だけで周囲の同級生たちからフォークグループのメンバーになるように声を掛けられた。大学に入学しても何もやりたいと考えているものがなかった暢之は、その誘いを受け入れた。

幸運にも暢之が参加したフォークグループは、ある音楽祭で優勝してすぐにオリジナル楽曲でレコードデビューすることができた。幸運は更に続き暢之たちの出したレコードがある放送局のDJに気に入られて、それを切っ掛けにヒットすることにもなった。

ところがもともと積極的に音楽活動をすることに興味のなかった暢之は、忙しくなり個人的な時間がなくなることに耐えられずにグループを脱退した。そんな暢之のところに取材に来ていた出版社の記者に声を掛けられて、暢之はその記者が所属していた出版社でアルバイトをすることとなった。

そして暢之はそのアルバイトを介して小説家の冨樫と運命的な出会いをすることとなる。冨樫は当時超売れっ子の人気小説家で、出会ったばかりの暢之をアシスタントとして採用したいと暢之に申し出た。そもそも物書きになりたいと考えていた暢之は、冨樫からの要望をその場で受け入れた。

40年近くも昔のしかもまるで一瞬の閃光のように光り輝いた短い時の流れの中で、暢之のその後の道筋がぼんやりと浮かんでそのまま定着したのだった。アシスタントとして冨樫から指示された事柄を丁寧に消化していた暢之の前から、気がついたら肝心の冨樫の姿が消えていた。

今から10年前に冨樫は突然休筆宣言を一方的に行って、事務所兼カフェを暢之にすべて任せてイギリスでの海外生活を始めていた。大学卒業後も冨樫のアシスタントをしながら自分でも小説を書き続けていた暢之は、50歳の時から1人で富樫の印税に関係する事務処理とカフェを引き継いでいた。

更新日:2018-05-16 05:13:23

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook

★【109】夏のレムナント(原稿用紙100枚)