• 7 / 65 ページ

義父

義父

弥七が南方の戦地から帰還したのは終戦から一年がたっていた。
五助の跡取りであったから、嫁取りを進められるのは当然の成り行きであったが、弥七はなかなか首を縦に振らなかった。
同じように戦地に駆り出された村人の中には帰ってこないものも数人いた。
帰還出来た喜びを素直に表すことなどできはしなかったし、戦争で負った心の傷はそれほど短時間で癒えるものではなかった。

わずかな棚田で牛を追い、急斜面の山に杉を植えた。
畑は日常の食材となる四季折々の野菜を作っても徐々に復興し始めた街にものが溢れ始めてもそれらを手に入れる現金はなかった。
収穫したコメを供出しては、わずかな現金を手に入れると生活に最低限必要なもののみを購入するのが精いっぱいであった。
子供を産めよ増やせの号令は、その食い扶持のことも考えることなく皆が従った。
四人五人と産んだ村の家々の子供たちは、そのひもじさに毎日を窮しているのが明らかにわかる。

幸いにも戦後の子だくさんの悲惨さを目の当たりして弥七は結婚に二の足を踏んだのである。
周囲の圧力に根負けして嫁を娶ったのはもう不惑に近かったが、その頃は恩給法のおかげでいくらかの現金収入にも恵まれた。
弥七には3人の妹がいたが村の世話役のおかげでそれなりに片づいていた。
父親も働くには衰えて長屋の隅に引きこもって酒を飲んでは道端で寝込み、近所の人の世話になる日々であった。

五助の家に入ったイネは思慮深く控えめでよくできた嫁で、小姑たちにいじめられながらも彼女たちが嫁ぐまで文句一つ言わず農作業、家事をこなしていた。
それほど大きくはない草ぶきの家の中は当然のごとく、今でいうプライバシーなどというものはなかった。
小姑の監視の中で小さくなって交わった弥七とイネの間に女の子ができたのは奇跡に近かったのかもしれなかった。
性格は良くて容姿も決して悪くはなかったイネであったが、弥七の欲望を掻き立てるような体ではなかったのも子供が一人で終わった所以であったもかもしれない。

父親はある冬の道端で酒を飲んで寝込んだ末凍死してしまったあと、じきに母がもうろくの兆候を発したのであった。
イネは農作業と家事の傍ら母の世話までしなければならなかった。
そんな家の中を嫌ったのであろうか、弥七は外に仕事を見つけては外出するようになっていった。

生けるものの多くはその子孫を残すことで一生を終えるものである。
蝉は5~7年を地中で過ごし地上に出た10日間ほどで子孫を残してその亡骸を地面に残して去っていく。
それらはメダカでも魚でも同様なのである。
神に逆らった人間の宿命であろうか、人は一人では始末できない。
その終焉は周囲の多くの人たちを巻き込んでは騒ぎを起こして去ってゆくしかないのである。
その騒動に巻き込まれる多くは女たちであったが、五助の家の場合はその女も騒動の一員であった。

福祉などという語彙はなかったし、誰しもが家族単位で完結をしなければならなかった。
一握りの裕福な家庭を除いて皆が同様であった。
いや裕福な家庭であってもそれほどの差異はなかったかもしれない。
人は元気で機能する間は誰にも迷惑を掛けたりはしない、それどころか周囲の手助けをしながら日々を送る。

老いは必然でやってくる。
小さな段差など気にすることなく歩いていたはずが、ある日それに蹴躓く日が訪れる。
歩様が衰え倒れることが重なり、脆くなった脚や腕が骨折に見舞われて安静が課せられる。
体を動かさない老いた体はその全身の機能の老化を促進させ、やがて寝たきりになってしまうのは明白であった。

弥七の母が裏の井戸水を汲んでいるとき、踏み台で足を滑らして転んだのは一人娘のサチが3歳の時であった。
隠居した父が死ぬまで過ごした長屋の脇の小さな部屋に入れられた母をイネは必死に看病したのである。
サチはその時の光景をおぼろげながら覚えていて、聡に時々話してくれた。
気の強かった母は常時悪態をついて母を困らせるのをサチはイネの背中で見聞きしていたのである。

それはイネにとって永遠に続く地獄のようであった。
街に帰りたかったが、それはありえない選択であった。
一度嫁いだらその家に一生を捧げるのは当然のことであったし、イネの実家にしても出戻りは家の恥であるのは世の中の常識であった。

サチが小学校に上がる頃、事故は突然訪れた。
村の家々の煙突から夕餉の支度の煙がたなびき始めていて、弥七が仕事から帰って来たのはその頃であった。
「母ちゃんはどうした?」
ひとり庭で遊んでいるサチを見かけて弥七は声を掛ける。
「畑に行ったみたい」
「そうか、遅いのう」
「婆さんは?」
「あっち」
いつもの隠居部屋を指さすと、弥七は様子を見に出かける。
「とうちゃん、お腹すいた」
「じき、母ちゃんが帰ってくる」

更新日:2018-03-12 14:51:56

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook