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区切り

区切り

「もぉ~~」
村中に届く大きな声で雌牛の「富士」が鳴いている。
成牛となった牛が出荷される時、決まって大きな鳴き声が村中に響き渡って別れを告げるその景色は一つの風物詩のようになっていた。
ただ今回の「富士」の鳴き声は成牛まであと半年以上かかるはずで、その響きはいつもの喜三郎の牛舎から出荷される雌牛の声と少し違って聞こえた。

喜三郎の長男の喜男が帰ってきて実家の処分の始めたのは一週間前で、その手続きの一つとして「富士」は知り合いの牛農家に譲渡することになったのである。
富士の手綱を引いてトラックに載せるのは譲り受けた農家の親父であったが、その場に喜三郎は見当たらなかった。

「義父さん、見送りにいかないの?」
喜男の嫁の圭子が気遣ってくれるが喜三郎は縁に腰掛けて黙っているだけであった。

年老いてひとりで生活できなくなる時が来るのはわかっていたことであっても、それが我が身に来ることは受け入れられなかったのである。
必死に抵抗しても喜男は妥協はしてくれる様子はなかった。
手助けしてくれる聡がいれば今の生活の維持はいくらか伸びるであろうが、それは気休めにしかならないことは皆が解っていた。

田畑を耕して種を撒き、世話を掛けて育て、やがてそれを収穫する、それは育牛も同じ繰り返しで永遠に続くと思っていたのであろうか?
人が老いるさまを数限りなく見てきたはずで、それが自分に巡ってきても受け入れらることなどできはしなかったし、ただ怖くて堪らなかった。
この人生の終末に押し寄せてくる見えない力は絶対的で、人の力の及ばないことは誰しもが覚悟していることで、避けて通ることなどありえなかった。

喜三郎にはその時期が恨めしかった。
挫いた足は徐々に回復に向かいもう少しの頑張りで元に近い生活ができる気がしていたし、何よりも落ち込んだ喜三郎を気遣ってくれた聡との距離が縮まったことが新しい世界を拡げつつあったのである。
二人の間に築かれつつあった煩悩の恐らく色欲の一部なのであろう、そこには今までとは異なる見知らぬ自分がいた。

「聡さん、義父がいなのですがご存じないですか?」
喜三郎の長男の嫁の圭子が小走りに駆け込んできて聡に尋ねる。
「えっ、おとうさんが・・・」
圭子に連れられて街の長男の家に越すことになっていた前日の昼過ぎであった。
「きっと、知り合いの方に挨拶に行かれたのでは?」
「大方の挨拶は済んだといって・・・それに心当たりを電話しても知らないと・・・」
「わかりました圭子さんは家で待っていてください、心当たりを探してきますから」
聡の心当たりは一か所しかなかった。

「おとうさん、こんなところに一人で来て危ないじゃないですか」
山の神の滝の祠の戸が開いていて、板の間の上がりに腰を掛けた喜三郎を見つけると声を掛ける。
いつもの白っぽい作業着を身に着けてはいるが、その服は以前と比べるとずいぶんとゆったりとしてだぶだぶに見えるのはさらに肉が落ちた証なのであろう。

喜三郎は視線を一瞬聡に向けるが、掛け声に応える様子はなかった。
明らかに無視するように上着を取り去り、白いいつもの天竺の肌着も脱ぎ去る。
祠は明り取りの窓からの光が線となって差し込んで、裸の老人の姿が薄暗い中に溶け込むような不安を聡は覚えた。
すっかり痩せた上半身が心細く目に映るが、喜三郎は続いて靴を脱ぎ靴下も取り去ると杖をついて立ち上がる。
左手で杖をつきながらズボンのベルトを緩めると不自由そうな手つきでズボンとステテコを足首に落とす。
「おとうさん、何をするつもりなんですか?」
聡が声を掛けても何も返答はなく、まるで聞こえていないようなそぶりであった。
なおも杖をついたまま左足右脚とズボンと肌着を抜き去ると、白い撚れたふんどし一枚になって立ち上がる。
「おとうさん、そんな体で危ないじゃないですか」
聡は思わず駆け寄って喜三郎の左腕を取ると、喜三郎は黙ってそれを振りほどいたのである。
それは不自由そうな体にしては力強く、それ以上の阻止は憚られた。
喜三郎は杖をついて河原に降りると滝に向かって一礼すると読経を始める。
そして、不安定な河原に杖をたてて進むと滝に背を向けて頭と肩で瀑布を受ける。
唯一腰に巻かれた白い布はすぐに水にぬれて喜三郎の股間を浮き上がらせるが、小さくなった体がなぜか憐れに見えるのであった。

更新日:2018-03-23 09:05:01

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