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老いの循環

老いの循環

歳をとってからのケガは、老いた体に想像以上の老化連鎖を呼び込んでしまう。
喜三郎の足首の捻挫は、運動能力を落し農作業のできない状態にさせるのは避けられないことであった。
動かせない体は筋力を衰えさせ、伴って気力も衰えさせていくのが明らかにわかる。
田畑の世話は急を要するものはなくとも、毎日の牛の世話は欠かせなかったから知らぬうちに聡の仕事となっていた。
牛舎の前に置いた大きな杉の切り株で拵えた椅子のようなものに喜三郎は腰掛けて、聡に指示を与える毎日が続いていた。

「きさやん、喜男に連絡してなんとかせんとの~」
喜三郎の長男喜男のことを指して、集落の年寄り仲間がそばを通ると声を掛けるが返ってくる返事は決まっていた。
「なんとかするから大丈夫じゃ」
「でも五助ばかりに世話させるのもの~」
確かに聡におんぶにだっこ状態は喜三郎も気が咎めていたが、子供に助けを求めるのはもっと気が進まなかった。
子供たちには子供たちの生活があるのは当然であり、彼らの重荷にはなりたくないという思いは人一倍強かったのである。

昔から当たり前の「老いの巡回」であるが、それはずっと昔からのことなのであろうか?
親が老いていくにしたがって、子はその世話を見る繰り返しのことである。
介護するにも余裕がなければそれは叶わなかったはずで、自らの食い扶持で精いっぱいの家庭に十分な介護はできなかったであろうことは察しが付く。
子供の世話になりたくはない、親せき縁者は当然のことであったろうし、自らがその始末をせざるを得ない時代が普通であったと思われる。
人々の生活が豊かになって昔とは比べようもないほどに余裕は生まれたであろう。
しかしその時代時代で余裕の捉え方が異なるのは仕方ないことであったのか、昔と比べようもないほど豊かになっても心の余裕は昔も今も変わらなかった。

聡には祖父の記憶がなかった。
聡が生まれたころに祖父は亡くなっていたから50歳くらいであったのだろうか?死因を聞いたこともなかった。
父も母も亡くなった今、それを確かめる術さえないのである。
祖母は当時としては長寿の80歳を超えて亡くなったが、当然のごとく母が世話を受け持った。
亡くなる数年前から視力が衰えていたから世話をするには相当な苦労があったのであろうが、母は農作業と内職の中で祖母を見送った。
その母が父を見送った時は子供たちは同居していなかったが、それは当時ではごく普通のことになっていた。

田舎に残された老夫婦が支えあって日々を送り、母が父を見送ったのである。
女性が男性より長寿なのは一般的で、夫を見送った妻は一人暮らしを強いられるのであるが、それは多くの場合は望んで迎える形態であった。
「子供たちの邪魔になりたくはない」、「世話になるのは嫌だ」、残されて老いた母親の意志なのであったが、それも長くは続かなかった。
父や祖先を祀ってひっそりと過ごした日々、体の不調も避けては通れぬ老化現象の一つであったが、ある日辛抱が限界を超えたのであろう土間で蹲って動けなくなった。
近隣の親せきが様子見に来たときは返事をするのが精いっぱいであったといい、そのまま入院せざるを得なかったのである。

ひとりには大きすぎる古ぼけた家、そこで日々を送る母は何を考えていたのであろう。
逝ってしまった父を想い、街に出ていった子供たちの安寧を祈っていたのであろうことは想像ができる。
自らが歳を重ね、老いの気配を感じて思う父や母のこと。「今ごろ何を・・・」頭には自責の念ばかりでしかなかった。

同じように喜三郎が子供たちの安寧を想う気持ちは手に取るように分かったし、老いが一気に色濃くなった喜三郎を手助けしたかったのは聡の望みでもあった。
仏壇の前に椅子を持ち出して腰掛けて手を合わせる喜三郎に以前のような覇気が消えかかっていた。

その姿は聡の両親が老いと戦った日々そのものの姿に違いなかった。
体力が衰えるのは防ぎようがなかったし、日常の刺激もなければ気力も衰えていくものである。
衰弱が抗う気力も削ぎ取って音もなく静かに年寄りを襲ってくる、それはまさに津波に等しい巨大なものであった。
思うように動けない体で家の中を動き回る喜三郎はわずかな期間で小さくなったように思える。

縁に腰掛けて穏やかな日差しの中で庭を眺めているように見えるが、その視線はどこに向いているのであろう。
その丸まった小さな背、何を想っているのであろうか、聡にはその喜三郎が今は愛おしくて堪らなかった。

更新日:2018-03-21 12:20:44

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