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ぬくもり

ぬくもり

「んもう~」
一頭の黒毛の和牛の背中からわき腹にかけてブラシを掛けるとその牛の毛は黒光りを増していく。
いつもの作業服を身に纏い白い長靴を履いた喜三郎が農協の名を書いた帽子をかぶって手際よく手を動かしている。
背中から脇へ、肩口から四肢に向かって屈みながら無心にブラシをかけているように見えたが、喜三郎の心中はなぜか虚ろであった。
喜三郎が体温を肌で感じるのは皮肉にも飼育する和牛だけであった。

「富士、お前だけだの~」
喜三郎は牛の鼻を引きながらその頬に自分の頬を当ててひとりごちた。
この富士は雌の和牛で素牛を引き取ってもうやがて2年になる。
体つきはすっかり大人になったが、出荷するまでには後約1年を要し、これからが肉牛の品質を決定づける飼育期間になるのであった。
肥育技術には三要素があり、素牛(もとうし)の能力、餌、飼育管理、これらが揃って良いものができる。
素牛は、日本中に子牛市場を開設しているのでお金さえ出せば良いものが購入できる。また、飼育管理はとにかく、糞をこまめに出し、牛床をきれいしてやればよいのだ。問題は餌である。
このエサが肉牛の品質を決定づける企業秘密なのである。

喜三郎には素牛を見分ける才能があったようでそれほどはずれを引くことはなかったが与える餌やその管理方法には試行錯誤の歴史があった。

今は輸入トウモロコシが飼料の主体になってきているが、喜三郎は昔ながらの飼い葉も欠かすことがなく、それは稲作にも通じていた。
さすがに春先の苗代作りは今はなくなり、苗は農協から仕入れていたが、その後の農作業はいまどき少ない手作業が多かった。
田を耕すのに耕運機を使ったり、苗は田植え機を用いたが日常の田の管理は昔ながらで、毎日の水の管理と雑草の除去、そして刈り取りもバインダーを使った。
ほとんどの田はコンバインという農機具を使って刈り取り、脱穀までした上に藁を細かく刻んで刈り取った田に撒いていくのが普通であった。

喜三はというと、結束をした稲藁をハザに掛けて乾燥さえる昔ながらの農法で、それは大変な重労働を伴い、この時ばかりは歳を感じずにはいられなかった。
こうして乾燥した藁を牛舎の床にしたり、餌に混ぜたりする必要があったのである。
余った藁は畑に敷き詰めて雑草対策と肥料になっていく自然の摂理がそのまま残しているのであった。

牛舎の床の糞を掻き出してそこに乾燥した藁を敷くと、稲藁の乾燥した匂いが糞の匂いを押し出して暖かい雰囲気を醸し出す時が喜三郎は好きであった。
中腰の作業で痛み出した腰を休めようと、そこに仰向けに寝転がると両手をと両足を投げ出す。
「どうしたのですか?」
突然小屋の外から声が聞こえてくる。
喜三郎は聞こえないふりをしてそのまま寝転がっていると、足音が聞こえる。
「こんにちは・・・喜三郎さん」
「こら!外履きの靴で入るな」
喜三郎が上半身を起こして怒鳴ると、聡は慌てて外に走り出る。
「ごめんなさい」
「どうした・・なんか用か?」
牛床で寝転がっていたのが少々気恥ずかしく喜三郎は仏頂面で聞くと、聡は笑顔で聞き直す。
「どうしたのですか?倒れていたんでは・・・」
「倒れてなどしとらん、どうもしとらん」
取り付く島もないとはこのようなことをいうのであろうか、聡は気まずい思いで立ち去るしかなかった。

ずいぶん歳を重ねた割には喜三郎に裸の付き合いといったものがなかった。
その言葉の所以は、わかるようでわからないことわざの一つであった。
心の衣をかぶせないありのままに接するということであろうが、その語源は文字通りのものであったのであろうか。
山の神の滝行で倒れた喜三郎を介助する聡の肌のぬくもりは今も肌に残っているように思われた。

人肌の記憶は子供が小さかったころ風呂に入れてやったころが最後だったのではないか、そのような気がするほど記憶になかった。
宴席の痴話の後の褥にしても肌を合わせたとは言えなかった。それはそれで一種の快楽ではあったが喜三郎の場合は一方的な受け身でしかなかった。
いくらか若い聡が老いた喜三郎を抱いてくれたのが嬉しかったが、その感情は決して表に出すことは許されなかったが喜三郎を戸惑わせていた。
(よけいなことをするからだ・・・)ひとり気丈に生きて来たのに、にわかに人が恋しくなったのであろうか、喜三郎には分らなかった。
聡は主に東日本で生活してきた。
東日本の豚肉文化、西日本の牛肉文化といわれて、昭和の60年くらいまでは東日本では牛肉は少なかった。
すき焼きといえば東では豚肉で西では牛肉だったのである。
神戸、松阪、近江の牛肉は昔から有名だったが、前沢、米沢などのブランド化は平成に入ってからのことであろう。

更新日:2018-03-16 15:12:17

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