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懺悔

懺悔

山の神の滝行は喜三郎の祈りの滝行であった。
この汚れた体をこの集落のために捧げるという名目は老いた喜三郎には都合が良かった。
思い返してみれば何が楽しかったのであろう?頭によみがえるのは辛い思い出ばかりであった。
戦時中、戦後のろくに食べるものもなかった時代を生きた。
すでに80年という歳月を経て多くを飽食に時代に生きたはずであったのに、頭に蘇るのはあの空腹の時代のことばかりであった。

サツマイモは供出してわずかながらも生活費に充てられて、皆はその茎を食べた。
畑の脇に育つねんぶり(ノビル)はごちそうであったし、春の土手で採れる土筆もおいしかった。
それらを採取して母に手渡すと母は嬉しそうに料理をしてくれた様子が思い出されるのである。
今になって思えば、喜三郎たちがひもじさに苦しむことより、その子供たちに十分な食事が用意できない辛さが母を苦しめていた違いなかった。
自身の苦しみより自身の子供たちが苦しむことの方が数倍苦しいことは明らかなことであった。

街のいくらか豊かさを手に入れた家の子供たちはいくらかの小遣い銭を持たされていたようであったが、喜三郎たちには無縁の金銭であった。
道路わきを流れる溝を浚って歩くといくらかの金属が見つけられた。
それが運よく銅であると回収に訪れる業者の親父が目方を計ってはわずかな金銭をくれた。
それは子供たちにとって一年に数回の現金を得る貴重な機会であったのも鮮明に思い出された。

貴重な金銭を何に使ったのであろう、それが日ごろから欲しかった何かの購入に充てられたはずであったが不思議とその幸福の時が思い出せなかった。

子供たちにその様な思いはさせないという一念で頑張ったのは紛れもない事実ではあったが、それが十分であったのかは自信がなかった。
その時を必死に生きてきただけであって、それは両親が、祖父母が、その時代を必死に生きたのと同じであるはずであった。

生きた時代の偶然が幸をもたらしたり災難をもたらしたりしただけではなかったのか。
戦後の復興は喜三郎たちの世代の頑張りにあったと世評は論するが、それは当事者の世代にとって面はゆいことであったし、そのような充実感はなかった。
ただただ日々を懸命に生き延びるためにあがいた結果でしかなかった。

喜三郎たちの頭には物品に恵まれない時代の日々のひもじさだけが脳裏に刻まれている。それは両親の頑張りがなかったからではないはずであった。
顧みれば、喜三郎の子供たちが何不自由のない生活が送れたのは喜三郎たちの頑張りのゆえであろうか?

ならば恵まれた時代に生きた自分が恵まれない時代をあがいた両親に何をしてあげられたのか?悔いのない孝行ができたのであろうか?
まるで邪魔なものを見るように老いた世代を眺めたのが心苦しかった。体の自由を失いつつあった年寄りにとって子供の世話になることは不本意であったはずである。

自身の子供たちにも幸せな日々を送らせてあげられたのであろうか?
過去のひもじさの日々を物差しに、子供たちに無用の苦しさを無理強いしただけであったように思えてくる。
親せきの人々、仕事上の仲間、集落の近隣の人々、彼らに十分な奉仕ができたのであろうか?

すべてが中途半端に過ぎ去って、その時々の忌まわしい記憶が脳裏を駆け巡るのである。
周りのみんなが憐みの眼で見ているような錯覚さえし始める。

喜三郎には周囲とうまく交わる才がなく、仕事を通じて知り合う仲間、慕ってくる後輩も苦手であった。
気が進まないままに参加する組合の旅行も苦手で、宴席のにぎやかさに一人交わることができなかった。
余興に催されるお座敷芸で盛り上がる仲間からいくらかの距離がいつもできていたのは普通のことのようになっていた。
組合の行事には出席して気の進まない旅行にも都合のつく限り参加していても、「喜三郎は付き合いが悪い」といわれるのはいささか心外でもあった。
恐らく宴席の後の女性の接待に距離を置いていたのがそのいわれであろうことは察しがついていた。
男女の営みは子孫を残すことにあると決めていたし、子供二人を授かった後は当然のようにご無沙汰となったのである。
周りの下卑た話題を耳にしては、喜三郎が標準からかけ離れているようすは自覚していたが、無理に合わせる気にはならなかった。
ただ不思議と弥七と姉の行為には昂るものがあったのはなぜなのか自身ではわからなかった。


更新日:2018-03-14 14:49:59

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