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山の神 寄合

「それは、違うぞ」
集まった村の人の会話を遮って喜三郎が声を上げた。
「昔から受け継がれてきた習わしをわし等の代で切らせてならんぞ」
「何を今頃、きさやんが何を言おうがおれたちにその気はもうないぞ!みんなと話をしてやめにすることにしたんだ」
組長を務める省三がなだめるように答えるが、喜三郎は立ち上がって皆の顔を見回す。
喜三郎もいつもの野良着ではなく、上は粗いよこしまのポロシャツ下は白いゆとりのある天竺のズボンを身に着けているのが、程よく歳に似合った装束に思える。
いつもは帽子に隠れた頭は前頭部から頂上近くに髪が後退して見ようによっては老いた武士を思わせる容貌であった。

「だれか、この長く受け継いできた風習を守ろうというもんはおらんのか?」
組の面々は関わりを持ちたくないという風情で黙ってうつむいている。
喜三郎が集まったメンバーひとりひとり眺めて視線を回す。
誰かの呼応を待っているのがよくわかる。

そんな喜三郎の目が新参の聡に注がれて止まった。
「あんた、五助の婿だったのう」
思わぬ展開に人ごとのように傍観していた聡がいきなり引きずり込まれたのであった。
「えっ、ええ、五助の聡です」

聡が移り住んだ妻の実家のある山間の集落はおおよそ30世帯の小さな僻地の集落であった。
昔からの村によくあるように、そこでも通常の苗字を呼ばずに屋号で呼ぶのが習慣であった。

喜三郎はこの集落の長老であった。
最近傘寿を迎えたといってぼやき気味に人と話をしていたのを聞いたことがあった。
とても80とは思えない若々しい身のこなしで、年齢を聞いて驚いたことを思い出す。
わずかな田と畑でコメと野菜、それに茶を栽培しながら牛を飼っているようであった。
この集落に住む年寄りの例にも洩れず、聞くところでは独り住まいであった。
妻の話では、配偶者はずいぶん前から見たことがないというが、子供は二人独立して町で暮していると聞いたが見かけたことはなかった。

聡たちが町へ出るには喜三郎の家の前を通らずには行けないのでいつも気にして目をやると、たまに畑仕事の喜三郎と目が合う。
いつも白っぽい上下の作業着のような野良着を着た体は、小柄だが背筋が伸びて若々しい雰囲気で、白い帽子の下の顔は日に焼けて聡にはまぶしく映った。
喜三郎は会釈はするが愛想笑いもなくとっつき難い雰囲気であった。
洗濯物の有無が健在の証拠だと思っていつも気になって眺めてはいたが、それらが干してあってもいつも野良着と靴下だけなのがなぜか不思議に思えた。
あるとき車で通りかかると作業を終えたのであろう喜三郎が珍しくくつろいだ装束で庭に立っていた。
白い半そでシャツと白いステテコ姿で涼んでいたのであろうか、ステテコに透けて見える肌着が聡には懐かしかった。
それは義父のいつも着けていた白い布状の下着であるのは間違いなかった。
聡に心に急に喜三郎への思いが沸き上がったように感じた。

集まった組の面々は喜三郎より若いといっても多くは40代から60代であった。
そして彼らは時勢に洩れず勤めに出て生計を立て、先祖から受け継いだ田畑を守るために休日に農作業に勤しんでいた。
彼らの感覚は都会の勤め人と何も変わらないが、休日を狭い田畑の守をすることに辟易となっていたのである。
出来うるならこの財産価値のない田畑、山林を手放して自由の身になりたいと考えるのが村人の本音であった。
職場で交わす会話でうかがい知る町の自治会が、この集落の組という風習でありそれは呼び方が異なるに過ぎなかった。
そのような彼らに、今日の議題の「山の神」なる伝統の儀式がプライベートな時間を割いてまで実行する気などさらさらなかったのである。

集落は標高1000メートルにも満たない山の裾に位置して東西に迫る山肌の間に棚田が組まれていた。
それはまさに組まれた棚田であった。
斜面で田畑を形成するには平地を確保するために段々の形状が必要になるが、それは通常自然な土手で作られる。
聡の移り住んだその地は土手を形成するほど恵まれてはいなかった。
恵まれた平地を得られなかった先祖はいつのころからだったのであろう、石を組んで石垣を形成したまるで城のような棚田を作ったのであった。
遠い彼らの先祖は気の遠くなるような時間を要して少しづつ、少しづつ耕作地を拡げていったのである。
そのような彼らの苦労をあざ笑うかの如く自然の災いは容赦がなかった。
切り開いた山林は貯水機能が失われて、時としてがれきの山を築く土砂が襲うのであった。
それは延々と続く自然の営みを人間が妨げた報いに他ならなかった。
人々は自然の怒りを収めようと山の神として祀ったのであった。
遠い昔は山の神にささげた人柱の伝説も語り継がれているほどで、自然と人との戦いの折り合いを巡った歴史があった。

更新日:2018-03-09 12:44:26

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