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 ・ 合の宿御白い臭き衾哉 
       (あいのしゅく おしろいくさき ふすまかな)
        (明治28年11月22日)句稿7

 掲句は「両肩を襦袢につゝむ衾哉」に続く俳句である。そしてこの「両肩を」の句は「すべりよさに頭出るなり紙衾」に続いて作られたものである。 これら3句をまとめて解釈すると理解が早くなる。
表裏が紙製のあんこ入り布団である掛け布団がこれらの俳句の主役である。当時のこの布団は軽くカサカサ、つるつるしていたことがポイントになっている。このことは表面の紙地の「すべりよさ」を俳句に組み込んだ「すべりよさに頭出るなり紙衾」の句に表れている。布団の下で動くとズレやすいのだ。そしてその掛け布団の下での男女の夜の営みがあり、それを描いたのが「両肩を襦袢につゝむ衾哉」の句である。漱石先生はそばで寝ている女性が寒くないようにと、被っていた襦袢を女性の裸の肩に掛け直した。この際に感じた匂いのことを描いたのが「合の宿御白い臭き衾哉」の句ということになる。このすこし落ち着いた気分になった時に「御白い臭き」と感じたのだ。備え付けの夜着の衾に沈着していた白粉の匂いだけでなく、側の女体も白粉の匂いがしたのだ。
当時の日本人は裸で袷の着物や襦袢を脱いで被り、その上に薄い綿入れかい巻き、または四角の綿入れ布団を被って寝ていた。いわば西欧人に近い寝方をしていた。防寒夜具が十分でなかった時代の生活の知恵だったのかもしれない。

これらの俳句は、松山の独身の男女を対象に経営されていた若者宿「合いの宿」の中でのことを描いている。ちなみにこの「合いの宿」は漱石の造語であり、男女の出会いの場であり結婚の相手を決める場であった。体が合う「愛の宿」の意味も掛けてある。この施設は教育の場でもあった。ここで若い男は夜なべ仕事を覚え,村人としての常識や技術を学び,松山では生け花や茶も学んだ。また娘宿の女子ともここで交流した。
 全国各地にあったこの種の施設は江戸時代から大正時代まで村・地域に存在した建物で、若者組によって運営されていた。村内の有力者の家や専用の建物が使われた。この共同宿に置いてある布団は多くの若者が使った。漱石先生は当時、独身であり俳句仲間を通して若者宿の一員に加えてもらっていた。この制度と並行して夜這いという風習も公に認められていた。漱石先生はこの制度・風習が残っていた明治時代に独身時代を東京と松山で過ごした。

 衾のことを詳しく説明する。衾は紙衾のことである。これは夜着であり掛け布団である。関西では明治の初期まで今の四角形の綿やダウンを入れた掛け布団とは異なる厚手の夜着が使われていた。表裏の素材はシワ入れ加工の和紙で、アンコとして叩いた藁もしくは麻のクズを詰めて縫い閉じた。そして敷き布団は掛け布団と同様のものであった。
 これに対して関東では袖付きの大形の綿入れ着物が懸け布団として用いられた。アンコを入れた「かい巻き」状の変形掛け着布団である。いわば袖付き布団である。敷き布団はアンコを入れた薄い布団になっていた。関西の方は、保温性よりも作りやすさを優先させた。。
ちなみに松尾芭蕉が東北を旅したときには、上記のワタ入れ袷の紙衾を着物のように折りたたんで持ち歩いた。四角の敷き布団も折りたたんで持ち歩いた。



・  逢ふ恋の打たでやみけり小夜砧
         (あふこいの うたでやみけり さよぎぬた)
          (明治31年10月16日)句稿31

 近くの家で夜の仕事として娘や後家が砧打ちをしている。洗濯は野良仕事が終わった後、夜にやる女の仕事になっていた時代の話である。秋の夜は窓を開けていて、途切れることなく軽快な砧打ちの音が夜のしじまに響いている。その音がふと途切れると気になる。何が起きたのかと耳を澄ます。もしかしたら知り合いの男が夜になってその女に逢いに訪ねて来たのだと想像する。もう少しで仕事は終わるから、外で待っていてほしいと囁く声が聞こえて来そうな気がする。秋の涼しくなって来た夜に、男女のささやきが溶けて響きあう。叩く砧の音も今宵は艶っぽく聞こえる。
 漱石先生は夜の読書の時間に、近所の生活音に関心を持っていろいろ想像している。若い時の記憶を呼び戻しているようだ。夜、心を寄せる女性に逢いに行ったことがあったのだ。

 漱石先生は親友の子規が作っていた洒落た砧の句を思い出していた。「砧打てばほろほろと星のこぼれける」と「落ちて灯のあるかたや小夜砧」。子規にも恋愛する女性を詠んだ句があったのだ。



更新日:2021-09-17 21:00:27

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『落語より面白い漱石俳句』:生涯全句の解釈例とその面白味