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 冷え込んだ雨の日は、フルヘルメットの視界が最悪になる。鬱陶しいなと口に出して、ふと杞憂だったことに思い当たる。通勤に使っていたスクーターは、以前、自損と貰い事故で痛い目にあったのを機に、バイクはやめて自動車通勤に変えていたのだった。
 最近記憶が飛ぶことがある。一過性脳虚血発作かも、と一瞬よぎったが、心身共に瑕疵はないはずの自分に限って、という自信が、年のせいだろうと言う結論で済ませていた。35歳で年のせいと結論付けること自体、やはり脳に問題があるのでは、と考えたほうが良いと思うが。特に彼の職業が、医業類似行為者なのだから。

 「はよー徳さん、美紀ちゃんは今日から冬休みで、バイトの子は明日からだったな」
 今日は前技からやらされるってことねと。
 「おはざっす、そうなんです、今日は院長と二人です」
 「新規入ってる?」結構タイトですよね、新規無理でしょうと。
 「宮下さんが寝違いみたいで、十二時で受けました」
 「待ってよ、ジム行の時間無しかよ」院長の健康、気遣ってよ。
 「さっき言ったしょ、今日は二人ですから」リカバリーでしょ。
 「PTの徳先生ジム諦めるから腹筋とストレッチお願いします」
 「鍼の滅菌済んだら行きますから。ウォームアップしといて」
 院長代理見習いの徳田洋一が院長の三田剛秀に指示を出す。
 「先生、宮下さん、鍼の後のオイル任せてもらえませんか」
 徳田は三田の背筋伸展促進圧をきつめに加えながら言う。
 「うーきつい、分かった、リンパドレナージね、手強いぞ彼女」
 「みっちり中年のご婦人方で鍛えさせて頂いていますから」
 徳田がさらにここぞとばかりに圧をを加えながら言う。
 「痛いっ、分かった任せるよ、だからお願い緩めて頂戴!」

 PT(理学療法士)の手にかかると、充実した筋力アップが得られる。六尺豊かな体躯の体脂肪率10%未満を維持し続ける自己管理は並大抵なことではないが、剛秀にとって徳田は、その管理の大半を任せられる、重宝な院長代理見習いであった。
 宮下絵梨がいつものようにあたふたと駆け込んでくる。
 「先生、朝起きたら首が回らないの!」
 首から上を右斜頸20度に固めたまま、睫毛をしばたたかせる。
 斜角筋の炎症で僧帽筋と胸鎖乳突筋が痛みを避け、固まってる。
 治療は寸六太めの鍼で切皮だけで済ます経穴を取り要穴の欠盆
に慎重に刺鍼する。浅いと効かないし、深すぎると肺尖まで行き、
気胸を起こす。手の三里と外関に流注して鍼治療を終える。

 「絵梨ちゃん、首から上は4,5日安静、新体操は練習休みだ。足腰は手入れしときな、今日はPTの徳さんが担当するからね」
 「やだ先生がいい。だって、なんとなくキモイんだよ徳さんは。」

 「宮下さん、どうぞ副治療室へ」と徳田の声がかかり、絵梨がしぶしぶ入っていく。剛秀は寸暇を利用して昼食のため外に出る。
 金目鯛の煮つけ定食に舌鼓を打ちながら、徳田が理性と煩悩のはざまで眼鏡を曇らせながら奮闘しているであろう姿を想像して、ほくそ笑む剛秀であった。

更新日:2017-11-13 11:29:22

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