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空白

「面白くないわ」
 少女はばっさり切り捨てた。そこらじゅうに本棚に入り切らない本が積まれた部屋の中、椅子に腰掛けた青年は困ったような笑みをしながら頭を掻いた。
「そうかい」
 ため息混じりに言いながら少女にも座るよう手で向かいの椅子を示す。少女が座るのを待ってから青年は聞いた。
「で、どこがダメかな」
「全部よ。何も伝わってこないし面白みもない、文も下手だし、まだ読めるところはありきたり」
 厳しいなあ、と青年はまた困った顔で微笑んだ。
「僕は幸せを書きたかったんだがね」
「あら、そんなの全然知らなかったわ。この世の地獄みたいなものを書いてるくせに」
「そこまでひどいもんでもないだろう」
「ええ、文がうまけりゃそのくらいの物凄さが出るかもしれないけど」
 澄ました顔で少女はすっかり冷めた紅茶を一口。退屈な文を読まされたせいで紅茶だって冷めちゃったわ、と文句を言おうかと考えたが、それはやめておいた。
「だからね、僕は物凄いものを書きたいわけじゃないんだよ。だから軽くて何も残らない調子で十分なのさ」
「言い訳でしょ」
「だからさ」
 少女は聞かずに立ち上がった。
「今度は紅茶だけじゃなくてケーキもお願いね。そしたらまた読んであげるわ」
「でも、君」
 少女はうんざりした表情を隠さずに、途中で読むのをやめた原稿を部屋の隅の机に置いた。
 その瞬間、全てが動いた感覚があった。何の音がしたわけでも周りで実際に何かが動いたわけでもないが、あらゆるものがひっくり返ったような感覚。
 振り返ると、部屋は空っぽだった。積み上げられていた本も、本をいっぱいに詰め込まれた本棚も、さっきまで座っていたはずの椅子も、冷めた紅茶が置かれていたサイドテーブルも、そして話していた青年も、何もかもが消えていた。思わず一歩後ずさり、少女はさっき置いた原稿がテーブルごと消えたことに気がついた。それで部屋は少女を除けば完全に空っぽになってしまった。
 おかしいわ、だってさっき――
 思考は途中で止まった。
 さっき話していたはずの相手と自分と、どんな関係だったろう。
 さっき読んだはずの出来の悪い小説はどんな話だったろう。
 紅茶がまだ淹れたてだったとき、どんな話をしていただろう。
 何も思い出せず、しまいには少女は自分のこともわからないと気がついた。名前は?年は?どこに住んでいる?何もかもが部屋と同じように空っぽだ。なぜかさっき読み切らなかった原稿が惜しくなる。最後まで読んだら、自分のことがわかっていた気がして。自分はその小説の中の人物だったような気がして。
 くらりとめまいを覚えた瞬間、少女も消えた。部屋は完全に空っぽ、とはいえない。少女が消えたそのとき、部屋すらもうそこにはなかったのだから。

更新日:2017-11-09 22:13:26

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