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大役

裕翔が武蔵野交響楽団の松本公演で気分が悪くなったのは、大音響が理由ではなかった。
翌日になっても食欲がなく胃のあたりに不快感があり、近くの病院に行くと急性胃炎と言われた。

裕翔は卒業したら母のバレエ教室を手伝う予定だった。
今まで母は、子供と専業主婦を相手にしていたから、仕事帰りの女性をターゲットにしようと考えていた。夕方からは稽古場が空いていた。夕方から夜まで自分が受け持てば生徒が増え、稼働率も良くなると思っていた。祖母の世話は交代ですれば何とかなると思っていた。
しかし、その考えは全く甘かった。
母が教室をやめると言った時から、ダンサーとして食べて行くにはバレエ団に入るしかなくなった。
毎日インターネットで団員を募集しているバレエ団を探した。
探しているうちに希望より不安が大きくなっていった。
仮にどこかに入団できても、よくて群舞の中の一人、下手をするとほとんど出番がないかもしれない。家に送金するどころか、自分ひとりで生活することさえ困難だろう。

一方、祖母の介護は日に日に負担が増すばかりだった。
デイサービスを週5回利用していても、母は楽になった気がしないと言う。
認知症が進んだ祖母は、母のことを看護婦と言い、自分のことは介護施設の職員だと思っている。父が帰宅したら知らない男が家に入ってきたと言って騒いだ。実の息子さえわからなくなっている。
薬を飲ませた直後に飲んでいないと言って、薬の入った袋を開けようとしたのを止めたことは、一度や二度ではない。
特別養護老人ホームの順番は何年先に回ってくるかわからない。新聞広告で見るような設備の充実した施設に入所させるほど経済的余裕はない。
大学の就職課に相談に行ったら、まだ間に合うと大学院への進学を勧められた。
修士課程で終わりにしても、博士号を手に入れても、結局は就職のタイミングをずらしているだけだと思う。
バレエ団と建設会社の両方に履歴書を書いて送る日々。
応募してもまず書類で落とされる。ようやく面接にたどり着いてもその後がない。
もう不合格通知をもらうことに慣れてしまった。
職業安定所に行ってみたら、介護の仕事ならいくらでもある、仕事で覚えたことがいずれ家族の介護に役立つのだから、こんなにいい仕事はないと言われた。
確かにそうだが、他人の介護をした収入で、祖母の介護を他人に任せるなんて、矛盾を感じる。
自分は何のとりえもない、どうしようもないクズに思える。
大学や近所で修を見かけても、声をかける気になれなくなっていた。
松本に行ってから、修が遠い存在に感じられた。

裕翔は、親戚から届いた梨をペンションに持っていくように母に言われても、行くのが億劫で、袋を抱えたまま家の近くで休んでいた。その脇を修が自転車で通りかかった。
「裕さん、どこへ行くの?」
「ああ、ちょうどよかった。梨、母さんから。」梨の入った袋を修に渡すと「おばさんに渡してくれ。」と言って、逆方向に歩き出した。
「裕さん、待って!」修が止めた。「あさって、癒されませんか?」
「はあ?お前、まだ日本語が変だぞ。」
「友達に神社の関係の人がいて…その人は笙っていう楽器やっていて、1時間位付き合ってもらえませんか?」
「どの辺?」
修が指差しながら話を続けた。「あの山の方に向かって歩くと、神社がある。ペンションに朝9時に来てください。」
「わかった。」裕翔は下を向きカーディガンのポケットに手を入れて元来た道を帰っていった。
「裕さん…」
何も言わなくとも、就職活動がうまくいっていないのは裕翔の背中を見ればわかった。

翌朝、約束通り裕翔がペンションにやってきた。
「冷えるようになったな。」
「そのうちこの辺も紅葉する…」修は楓の葉に手を添えていた。
30分ほど細い道を歩くと、小さな社殿が見えてきた。
「こっち!」高野が修に声をかけた。
「あ、知り合いの人?」高野が裕翔を見た。
「建築学科4年生の橋本裕翔さん。」修が高野に紹介した。
「高野です。先輩。どうぞ。」
和室に通されると、火鉢が置かれていた。
「電気コンロがなかった時代はこれだった。」と高野が言うと、修は中を覗き込んでいた。「暖かい。」
何が始まるのか全く見当がつかない裕翔は修と高野の様子を黙って見ていた。
「これをやってみたかった。」修は笙を火鉢の上でくるくる回し始めた。
「近づけすぎると危ない。」高野は修の持ち方を修正しながら様子を見ている。
「あ、橋本先輩、正座だときついですから、崩してください。」高野は裕翔に声をかけた。
「そうさせてもらうよ。」裕翔は慣れない正座で足がしびれていた。
部屋のあちこち見るのは失礼だと思っていたが、琴や琵琶、装飾の華やかな太鼓、鼓のような形をしたものが置かれている。壁を見ればお面が掛けられている。

更新日:2017-08-16 21:37:19

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