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それぞれの夏

裕翔は入社して3か月経過した。
まだ一件も契約が取れていない。

入社時にもらったパンフレットが手元にそのままある。
顔や手は目に見えて日焼けしてきているのに、仕事は全く変化がない。
毎日門前払いを報告するだけの日報作成。
給料日の1週間前からは一日1食、カップラーメンで食いつないでいる状態だ。

初めて外に出た日、一人暮らしのお年寄りと話すことができたと報告したら、部長に再度行くよう言われていた。
先月は留守だった。
もう一度行ってみると、中年男性に付き添われ、車に乗り込むところだった。
隣の家にドアホンで聞いてみたら、住人が外に出てきた。

「あのおじいちゃんは施設に入るんですって。一人暮らしはもう無理だろうって息子さんが決めたらしいのよ。お庭のアジサイが見事に咲いているのに、更地にするなんてねぇ。…あなた、お知り合いなの?」
「以前、リフォームのご相談を受けていまして、ずっとご連絡がなかったものですから。」
「あらそうだったの。」
「失礼しました。」
裕翔は一礼してその場を離れた。
たった一つの小さな望みが絶たれてしまった。

しばらく歩いて住宅に囲まれた小さな公園のベンチに座り、地図を広げた。ため息しか出ない。
顔を覚えてもらうには繰り返し訪問することだ、と部長は言う。
少しでも多くの家をまわらなければ仕事は取れないとも言う。
だから、時間ギリギリまで訪問しているのに、全く手ごたえがない。
どうやったら先輩のようにいくつも仕事を取れるのだろう?

収入は変わらないのに支出は増える一方だ。
総務と経理の女性が今月結婚するので、お祝いの徴収が2回あった。
そんなにジューンブライドがいいのだろうか。
梅雨の蒸し暑いさなかに挙式なんて。
週末になると飲み会の誘いが来る。
何故か女性は半額だ。
1件も成約できない自分は事務職の女性より収入が少ないのに、不公平だと思う。
でもそんなことを口にしたら、嗤われるだけだ。
「お釣りはいらない」と1万円札を出す先輩がうらやましい。

人付き合いにお金を使い、普段の食事を減らして出費を抑えるなんてばかげている。
1週間までなら金利のかからない金融機関を利用してみようかと思ったが、借りることが習慣になってしまいそうで、入口の手前まで行って帰ってきた。

それにしても今日は暑い。
湿度が高いせいだろうか。
夏用のスーツでも、体に熱がこもっているような感じがする。

部長からは服装が乱れていると会社のイメージが悪くなる、どこで見られているかわからない、外に出たらジャケットとネクタイをきちんと着用すること、と言われている。

会社に戻れば経費削減のため、冷房を28℃設定にしているからノーネクタイでシャツ1枚になれという。
外の方がオフィスより気温が高いのに。

ベンチから立ち上がる気になれない。だるい。
だがいつまでも休んでいられない。
昨日、部長から入社したてのころに比べて回った軒数が減っていると言われたばかりだ。
立ち上がろうとしたとき、体がふらついた。
3日前からろくに食べていないから力が出ないのだろう。

「お兄さん!お兄さん!大丈夫!?」
話しかけられても、意識がもうろうとして口がうまく動かない。

「この人熱中症じゃないの?」

まもなく救急車が到着した。
「お知り合いの方は?」
救急隊員が見回しても、取り囲んでいた人たちからは反応がない。
「孫を遊ばせようと思ってここに連れて来たら、このお兄さん、いきなり倒れちゃったのよ。」


最初に病院に駆け付けたのは、営業部のお局様だ。
「お母様ですか?」
「いいえ!会社の者です!」
(こういう時、制服のない会社は困るわ。)
「会社の方ですか?橋本さんはかなり危険な状態でした。今日はこのまま様子を見た方がいいと思います。あ…普段どんな薬を飲んでいるとか、わからないですよね?」
「あの、要は入院と言うことですか?」
「ご家族を呼んでいただいて、手続きするよう伝えてください。」
「承知いたしました。ありがとうございます。」

部長とお局様の会話が聞こえてきた。
「長野から親御さんを呼んでいたら、何時間かかります?私そんなに待てません。」
「今日は5時から定例会議だ。残れるのは君しかいないじゃないか。」
「そんなぁ。」
「あ、そうだ!良い人がいた。」


しばらくすると、入れ替わりに明が現れた。
「今回倒れた原因は熱中症ですが、栄養状態が悪いようですね。」
医師の言葉に明は言葉を失った。
この飽食の時代に。

「入院手続きをしていただきますので、こちらへどうぞ。」
事務員に促され、明は病室を出ていった。

更新日:2020-11-21 17:38:13

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