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第零話「縁組前夜」(平昭二十九年 七月一八日 火曜日)
七月の中旬の夕暮れ。日中に熱された地面と空気を冷やすように、涼やかな風がベランダ入口の窓から室内に流れ込んでいた。
鈴木英子は自宅マンションのリビングで、ソファーに座り、ぼーっとしている。
短髪に切りそろえた髪は、生徒指導の教師から注意を受けない程度に黒髪に馴染むよう薄く栗色を湛えられており、風と一緒に室内に入り込む西日が髪色の明るさを助長させていた。
学校指定の夏制服を着用したままであり、だらしなく放り出した足は、背の低いガラステーブルの上で組まれている。どことなく物憂げな表情を浮かべているが、右手で抓んで回転しているハンドスピナーに興味津々なだけである。唯一の家族である父親が一週間前に持ち帰ってきた品物で、ある本屋の店頭に設置されたガチャガチャの景品だ。
彼女は飽きもせずに、何度もプロペラを弾いては、回転の勢いが減衰していく様を眺め続けていた。
インターホンが不意に鳴る。受信機の方へと実に気怠げそうに、緩慢な動作で首を傾ける。
小さい液晶画面に映し出される人影が何者であるかまでは視力の問題上で判別しかねた。視力は悪い方ではないが、単純に距離が遠い。
ハンバーガーショップでのバイト帰りで疲れており、どうも体勢を起き上がらせることが億劫であった。
やがて、決心が付いたように短い唸り声を上げ、ついでに右手のハンドスピナーを床に落下させて、よろよろとホラー映画に登場するゾンビのような足取りで、廊下へと続く扉脇にあるインターホン受信機に歩み寄る。
「あ」
時、既に遅し。
彼女が玄関先にいる人物の正体を看破した時には、英子が去年プレゼントした緑色のキーケースから、自宅の鍵を伸ばしていた。
玄関はドアが開かれ、廊下にキャリーバッグのローラーが当たる音、幾つかの紙袋が摩擦して鳴る音が響く。
英子は受信機の前を離れ、元いたソファーへと座り直し、元の体勢でハンドスピナーで遊び始めた。
廊下の足音は直ぐにリビングには到着せず、一度音の主の自室へと吸い込まれていく。彼女が喪服姿の父親と一日ぶりに再会したのは、それから数十秒後。
「おかえり」
「なんだ居たのかよ。どうした、お疲れか」
リビングの明かりを点けながら、英子の父である光成は、思いがけなかった先客の存在に心底驚いた様子で訊ねた。
依然としてソファーの上でだらける彼女は、普段通りの男勝りでぶっきらぼうな口調で返答する。
「ああ。今日はちょっと飯作る気力も起き無いな。ところでその格好、暑くないのか」
「おっと、脱ぐの忘れてた。どうも喪服は薄着になるタイミングを逃してしまうな」
言い訳染みた小言を垂らしながら、また自室へと戻っていく。リビングに再度現れると、光成は白い無地の半袖シャツに麻素材の青い短パンという部屋着姿であった。自室の小型冷蔵庫から持ち出してきたのだろう、大ぶりの缶ビールが片手に握られている。
ソファーの背面に位置する四人掛けダイニングテーブルの席に着くと、光成は大きく嘆息を漏らす。
「突然ですが、明日ようじょがウチにやってきます」
前置きのない独り言のような父の宣言に、英子は凜々しい眉を著しく顰めた。意志の強い目が一気に吊り上がる。ソファーから身を乗り出し、背もたれ越しに怒号を飛ばす。
「本当に突然何を言い出すんだ、このバカ親父」
鈴木英子は自宅マンションのリビングで、ソファーに座り、ぼーっとしている。
短髪に切りそろえた髪は、生徒指導の教師から注意を受けない程度に黒髪に馴染むよう薄く栗色を湛えられており、風と一緒に室内に入り込む西日が髪色の明るさを助長させていた。
学校指定の夏制服を着用したままであり、だらしなく放り出した足は、背の低いガラステーブルの上で組まれている。どことなく物憂げな表情を浮かべているが、右手で抓んで回転しているハンドスピナーに興味津々なだけである。唯一の家族である父親が一週間前に持ち帰ってきた品物で、ある本屋の店頭に設置されたガチャガチャの景品だ。
彼女は飽きもせずに、何度もプロペラを弾いては、回転の勢いが減衰していく様を眺め続けていた。
インターホンが不意に鳴る。受信機の方へと実に気怠げそうに、緩慢な動作で首を傾ける。
小さい液晶画面に映し出される人影が何者であるかまでは視力の問題上で判別しかねた。視力は悪い方ではないが、単純に距離が遠い。
ハンバーガーショップでのバイト帰りで疲れており、どうも体勢を起き上がらせることが億劫であった。
やがて、決心が付いたように短い唸り声を上げ、ついでに右手のハンドスピナーを床に落下させて、よろよろとホラー映画に登場するゾンビのような足取りで、廊下へと続く扉脇にあるインターホン受信機に歩み寄る。
「あ」
時、既に遅し。
彼女が玄関先にいる人物の正体を看破した時には、英子が去年プレゼントした緑色のキーケースから、自宅の鍵を伸ばしていた。
玄関はドアが開かれ、廊下にキャリーバッグのローラーが当たる音、幾つかの紙袋が摩擦して鳴る音が響く。
英子は受信機の前を離れ、元いたソファーへと座り直し、元の体勢でハンドスピナーで遊び始めた。
廊下の足音は直ぐにリビングには到着せず、一度音の主の自室へと吸い込まれていく。彼女が喪服姿の父親と一日ぶりに再会したのは、それから数十秒後。
「おかえり」
「なんだ居たのかよ。どうした、お疲れか」
リビングの明かりを点けながら、英子の父である光成は、思いがけなかった先客の存在に心底驚いた様子で訊ねた。
依然としてソファーの上でだらける彼女は、普段通りの男勝りでぶっきらぼうな口調で返答する。
「ああ。今日はちょっと飯作る気力も起き無いな。ところでその格好、暑くないのか」
「おっと、脱ぐの忘れてた。どうも喪服は薄着になるタイミングを逃してしまうな」
言い訳染みた小言を垂らしながら、また自室へと戻っていく。リビングに再度現れると、光成は白い無地の半袖シャツに麻素材の青い短パンという部屋着姿であった。自室の小型冷蔵庫から持ち出してきたのだろう、大ぶりの缶ビールが片手に握られている。
ソファーの背面に位置する四人掛けダイニングテーブルの席に着くと、光成は大きく嘆息を漏らす。
「突然ですが、明日ようじょがウチにやってきます」
前置きのない独り言のような父の宣言に、英子は凜々しい眉を著しく顰めた。意志の強い目が一気に吊り上がる。ソファーから身を乗り出し、背もたれ越しに怒号を飛ばす。
「本当に突然何を言い出すんだ、このバカ親父」
更新日:2017-07-21 18:49:44