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おれたちは、スイートのサロンにルーム・サービスで食事を運ばせて、再会を祝することにした。

ダーヴィトがうまいシャンパンを選んでくれた。
テタンジェのロゼ、ピンクのシャンパンだ。特に出来のいい年のものらしく、ヴィンテージがついている。

泡のはじけるグラスを傾けながら、これまでの19年間のことをお互いに話す。

ダーヴィトは、ウィーン大学の哲学の教授になっていた。
叔父上のウィーンの屋敷を引き継いで暮らしているらしい。
昔、おれも行ったことのある、趣のある古い屋敷だ。
あの屋敷で、ウィーン・フィルのコンサート・マスターを前にして、バッハのシャコンヌを弾いた。そんなこともあった。

ユリウスの姉上、マリア・バルバラは、女性ながら事業家らしい。
代々続く繊維工場の経営に加え、かつてアーレンスマイヤ家が所有していたニッテナウの果樹園を買い戻してジャムなどの食品産業にも参入し、今は、「シュヴェスター・フォン・アーレンスマイヤ(アーレンスマイヤ姉妹)」というブランドを立ち上げて、果物のプリザーヴやはちみつ、ヨーグルトの製造など手広く事業を展開しているという。

おれは、昔、アーレンスマイヤ家のお茶会に招待された時に姿を見かけたことがある。眼に強い光のある、きりっとした印象的な女性だった。もっとも、よく覚えているのは、面差しがどことなくユリウスと似ていたからということもあるのかもしれない。

ユリウスがレーゲンスブルクに戻った時のことも聞いた。
黒髪の女性が送り届けてくれたという。二人とも髪を短くして男装していたらしい。
リュドミールが言っていたとおり、おそらくレオニード・ユスーポフの妹だ。
おれは結果として6年間ユリウスを探し回ることになったが、とにかくユリウスを無事送り届けてくれたことには感謝しなければなるまい。

おれもロシアでのことを話した。

シベリアに流刑になったこと。
ユリウスと再会し、一緒になったこと。
サンクト・ペテルブルクのアパートで二人で暮らしていたこと。
1917年の夏、離ればなれになってしまったこと。

話は尽きなかった。


更新日:2017-08-23 22:38:54

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