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小説

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苦難の兆候

善吉と幸代が秋田の庄衛のもとに帰ってきてから二十数年が過ぎていた。
平凡であるがお互い幸せな日々を送っていた。

人目には平々凡々とした生活であっても善吉は毎日が充実して楽しくて仕方がなかった。
朝起きて食卓に着く、庄衛とその家族に囲まれて・・・。
昼も夜もその楽しい日々は繰り返された。
きっと庄衛とて同じであったろう。

そんな幸せな日々に悲劇が突然に訪れた。
幸代が交通事故に見舞われたのである。

夕食の買い物をするために自転車で出かけてその途中に脇道から出てきた車にはねられた。
悪いことにその車は逃げたために救急車の要請が遅れて手遅れになってしまったのであった。

それは庄衛一家の悲劇の始まりに過ぎなかった。
その幸代が突然の事故で無くなってから一か月が経とうとしている。
当然、庄衛一家は茫然の体であった。
庄衛と美代にとっては実の娘を亡くしたのである。
その悲しみは計り知れないことであった。
善吉とて同様である。長年連れ添った妻が突然いなくなったのである。

一家三人悲しみのどん底の一か月であった。
庄衛と善吉はそのショックから少しずつ立ち直ろうとしていた。

だが母親の美代だけは病弱の身もあってずっと引きずったままであった。
美代は前にもまして床に臥すことが多くなった。

善吉は家事にも手を取られることになった。
家事がこれほど大変なことだとは思ってもいなかった。
家事の大変さを身に染みて知らされた。

庄衛は落ち着きを取り戻すと善吉の身の上を考えるようになった。
善吉は婿養子である。

歳は歳であるがここに縛り付けるわけにはいかないのではないか?
善吉にとっては庄衛も美代も赤の他人であり、それに美代は病弱で看病さえ必要としている。

庄衛にとって善吉の存在はもう欠くことのできないものになっている。
しかしそれは庄衛の都合である、善吉にとってここに縛り付けるのは過酷なことではなかろうか?

庄衛は意を決して善吉に話す。
「善吉、幸代がいなくなった今お前をここに縛り付けるわけにはいかない」
「お前の好きなようにしてくれないか?」
庄衛は切り出した。

「何を言うのです。私はもうお義母さんとお義父さんの子供です。どこへも行きません」

「しかし、美代はあの通りだし、このままではお互いがつぶれるだけだ」

「善吉はどこにも行きません、ずっとここにいます」

「お前の歳なら後添いを貰うことだって世間では普通だぞ」
「幸代はもうお前の相手をしてやることはできないし」

二人で話し合って出した結論は美代は入院させ、善吉は外に働き口を見つけ、農業は自給自足程度にするということであった。

善吉は街で仕事を探し、どうにか建築会社の事務所に臨時雇用で雇われた。
庄衛はハウスを撤去して露地物だけの昔からの農業に戻った。
ハウスを維持するにはそれなりの資金が必要でありとてもやってはいけないと考えたからである。

庄衛はもうじき古希になろうとしている。善吉も還暦が近づいてくる歳である。
人生の終わりに近づいてこのような苦難が見舞われるとはお互いに思ってもいなかった。

庄衛は農作業の傍ら美代を看病し、善吉は慣れない街への通勤である。
庄衛と善吉の作る食事は以前とは比較できないほどの質素なものになった。

善吉は庄衛と過ごせることに限りない充実感を感じていた。

庄衛と知り合ってもう四十年近くが経っているのにその思いは少しも色褪せることはなかった。

しかし、不幸はもっとかさにかかってやってきた。
美代の容態はだんだんと悪化して快方に向かう希望は無くなって行った。

それなりの治療費は必要である。
庄衛はできる限りのことをしてやりたかった。

苦しむ美代を見るといつも考えた。

苦しいのは美代だ、それを長引かせているのは自分だ。
だったら早く楽にしてやりたい。

でも苦しんで会話もできないが生きている。
現に今も生きてそばにいる・・それだけで自分はいい・・いなくなるのは耐えられない。
これはエゴなのだろうか?
そばにいてほしいのは自分である。

心の葛藤は続いた。
人の終末とはなんであろう・・どうすればよい・・・誰が決める・・・。
庄衛には分からなかった・・・というより決断はできなかった。

いずれにして安楽死という選択はありえない以上これは仕方ないことだったのであろう。
やがて苦しんで苦しんで美代は逝ってしまった。

「美代、よく頑張ったな・・苦しかったろうに・・」
庄衛は美代の額を撫ぜながらいつまでもいつまでも語りかけた。

分不相応と思われる治療も施してもらったために医療費は当然かさんだ。

庄衛はその工面に駆けずり回った。
ただそのことを善吉に相談することだけは避けなければならなかった。
善吉を道連れにしてはいけない。
善吉には人並みの幸せをもう一度手にして欲しい。

やがて美代の終末を迎えるころには多大な借金を抱えることになった。

更新日:2017-03-11 16:03:36