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(1)ベイビーが流れていた季節

 まともに女性に想いを打ち明けたことのない孝明が、初恋をテーマにしたショートストーリーをさっきからずっと考え続けていた。孝明は専門学校で2年間、放送番組の構成台本を創作する仕事について学んだ。

確かにその2年間で基本的なノウハウについて学んだお陰で、今では実際に専門学校卒業後から少しずつ現場での仕事も入ってくるようになっていた。
 
孝明はいつも仕事に集中する時は、アパートの近くにあるファミレスにコーヒー1杯で一番目立たない通りに面したコーナー席に座り込んでいた。窓の向こうを恋人同士みたいな若い2人連れが何組を、孝明の目の前を通り過ぎて行った。

今回の仕事はいつも通り先輩の放送作家が任されている仕事の一部分が孝明の所に回ってきていた。もっともあくまでも表面上仕事は先輩が最初から最後まで、すべてやっていることになっていた。

結構無茶なオーダーを押し付けてくる専門学校時代の先輩だったが、その先輩のお陰で何のツテもなかった孝明が一応放送作家の仕事現場に立つことが出来るようになっていた。孝明は先輩から仕事の対価としてそれなりの報酬を直接手渡されていた。そしてその収入だけが、今のところの孝明の唯一の現金収入だった。

孝明がファミレスのテーブルの上にパソコンを置いて原稿用紙に向かっている時は、アイフォン・ミュージックのシャッフル再生でイヤホンから音楽をずっと流していた。時折気分転換のために、ラジコでFM番組に切り替えてもいた。孝明の手がキーボードの上で止まったままとなったので、孝明はラジコに切り替えた。放送局はほとんどJ―WAVEばかりを流していた。

時間帯的には坂倉アコの番組だったが、懐かしい楽曲がイヤホンから流れ出てきた。ジャスティン・ビーバーの♪ベイビーだった。22歳の孝明にはこの♪ベイビーという楽曲は、深い想い入れのある楽曲だった。ぼんやりと窓の外の景色を見ながら、孝明はキーボードの上の両手を両脇に仕舞い込んで手を組んだ。

懐かしい楽曲を聴きながらぼんやりと窓の外を眺めていると、孝明の前を中学生らしいカップルが恥ずかしそうに手を繋いで歩いていた。孝明は窓辺から2人の姿が消えるまで見送って静かに目を閉じた。閉じた瞼の中に、孝明の中学時代の風景が拡がってきた。しかもその光景にはジャスティン・ビーバーの♪ベイビーが欠かすことが出来なかった。

この楽曲が流れていた2010年、孝明は中学3年生だった。そう言えば中学3年生の孝明に、初恋の真似事みたいな風景が一瞬拡がったことがあった。同級生で同じクラスメイトだった武田佑香、今でも名前と姿がはっきりと孝明の頭の中に浮かんできていた。

当時もそして今も変わってはいないが、孝明の前には親しい人の姿など誰一人として無いほど独りきりの風景だけが拡がっていた。そんな風景の中に、佑香がある日突然飛び込んできた。孝明が放課後下校するために旧校舎と新校舎との渡り廊下を歩いていた時に、佑香が必死に前方から走ってきて孝明の後ろへ姿を隠すように回り込んできた。

佑香の後を孝明のクラスの番長が追い掛けて来ていた。孝明はいつもこの番長から執拗なイジメを受けていた。だがその都度、孝明はそんな番長からのイジメを真正面から受け止めていた。やがて番長の方から孝明のことをかまっていても何の反応もないので、次第にイジメの対象から孝明のことを外すようになっていた。

あの時佑香はクラスの女の子たちから突然無視されるようになっていて、そのことを揶揄うつもりで番長は佑香のことを追い掛け回していた。番長と対峙したあの時の緊張感を、今でも孝明は忘れることが出来なかった。番長が大声を上げながら孝明の眼前まで迫ってきたが、孝明は身動き一つしなかった。

気が付いた時には、番長の姿は孝明から遠ざかっていた。偶然佑香の帰り道と孝明の帰り道が一緒だったので、そのまま2人で一緒に下校することとなった。あの中学時代の風景が今、孝明の頭の中でフラッシュバッグしていた。

更新日:2017-03-07 06:20:56

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★【84】ベイビーが流れていた季節(原稿用紙100枚)