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第2章 「反目の始まり」

1904年の2月に始まった、日本との戦争。それはロシア艦隊の軍港であった、遼東半島の「旅順」を基点に、繰り広げられた。待望の不凍港であり、極東への足掛かりでもあった、ここにある要塞を堅持することが、我が国には必要だった。しかし海を隔て、目と鼻の先に位置する、後発先進国の日本にとって、それは脅威でしかない。当初は早々に片がつくと思われた東洋の小国との戦争が、互いの利害を背景としつつ、実はそれぞれ関係する列強諸国の思惑をも抱き込んで、1年以上も続き長引くこととなった。

同盟を結んでいたイギリスを後ろ盾に、総力を尽くして戦っていた日本は、「奉天」陥落後日本海において、我が国が誇る『バルチック艦隊』との決戦に突入する。結果は日本軍の圧勝に終わり、我が艦隊は壊滅した。バルト海から移動し、半年以上にも及ぶ長い航海が、戦闘には不利に働いたのか。日本海決戦はその後の戦況の、分水嶺となってしまった。

戦争で疲弊していたのは、日本だけではなかった。ロシア国内でも、帝政に不満を持つ労働者のデモやストライキは高まる一方で、「血の日曜日事件」以降、社会を揺るがそうとする不穏な動きがいっそう増していた。さらにその年6月に起きた、「戦艦ポチョムキン」乗組員の反乱はいよいよもって、世間に衝撃を与える。国を守るはずの軍隊が反旗を翻し、謀反に走ろうとするとは。革命運動への影響を考えると、決して看過はできない。

すでに国力の限界に達していた日本側も、その頃アメリカを挟んで、戦争収束への道を模索し始めた。モギレフの、大本営の会議では、どうロシアが終局を迎えるか、軍部首脳の間で意見が割れる。日本との戦争は機を見て折り合いをつけ、いずれ決着することになるだろう。


国外は収まっても、ロシア国内では、勢いづいた反政府勢力を一掃する役目が我々を待っている。戦争における余波というのは、周回遅れでやってくる。ポチョムキン号のような兵士の反乱が、今後も起こることは十分考えられた。だからこそロシア内の秩序を保つため、正規軍の力を温存しておかなければならない。そう思うことは、正しかった。事実国内での本当の戦いが、これから始まろうとしていた。

更新日:2017-07-04 20:54:30

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