• 3 / 13 ページ

四ツ目屋の主

「…ネタがない」
 三越が大量の冊子を机に広げ、大きく溜息をついた。
今では江戸一番の芝居小屋へ成長した福屋。その主人である三越がそろそろ新作を、と脚本を探し始めて早ひと月。未だにこれというものが見つからない。どういった噺がいいか、方向性が決まれば新作の書き下ろし依頼もできるが、決まらぬ為それもできない。
「三越さん、これもダメでしたか」
 紺屋職人として大忙しの三越の伴侶である伊勢丹がかき集めてきた本の数々も、どうやら眼鏡にかなわなかったらしい。
「そう気にするな。これだけ集めてきてくれただけでもありがたい」
 三越の力になれず、気落ちする伊勢丹に、三越は慰めるように声をかける。
「せめて方向性だけでも決まるといいんだが…」
 そういってすっかり冷めてしまった茶を一口含む。
「まいどー。三越さーん」
 軒先から能天気な明るい声が聞こえる。返事もしないうちにそれはどかどかと音を立てて近づいてきた。
「三越さん、いますー?」
「おい、大丸。勝手に入ってくんなよ!」
「だって声かけても出てきぃひんから」
 咎める伊勢丹を気にした様子もなく、大丸は一冊の本を取り出す。
「三越さんが面白い本を探しとるって耳にしたから。これ、巷で評判の一冊」
 そう言って大丸が差し出した本には「焔」とあった。
「聞いたことないな?」
「そりゃそうやろ。発行部数は少数やもん。貸本で引っ張りだこの名作やで?」
「そんな貴重なものを有り難い」
 そう言って三越は早速読み始めた。
「しかし、お前でも本なんか読むんだな。ちょっと意外」
 大丸は馬鹿ではないが、部屋で書物を読むよりも、外を飛び回っている印象が強い。瓦版は読んでも、物語を読んだり芝居を見たりする姿は想像できなかった。
「ここにあの本の写しがある。挿絵はないが、それでも良ければお前も読む?」
「いいのか?」
 わざわざ自分で写しを作るなんて余程気に入ったんだな、と期待が高まり、伊勢丹はワクワクしながら表紙を開いた。
「………」
 伊勢丹の笑顔がすぐに凍り付く。
「……なんじゃこりゃあ!」
 開いて三頁もしないうちに、擬音と「あ…」だの「んんっ!」だのと短い台詞ばかりの文章で埋め尽くされた。
「大丸てめえ!これ艶本(えほん)じゃねえか!」
 艶本とは、昔は男女のだが、今はもっぱら男性同士の性交渉を表現した本。いわゆる春本である。
「艶本ですが何か?」
「キリッとして『何か?』じゃねえよ!こんなもん三越さんに読ませやがって!」
 三越を神聖視している伊勢丹には、許しがたい所業である。怒りあらわにしれっとした顔の大丸の胸元に掴みかかる。
「お前、読みもせんと馬鹿にすんなや!ええ本なんやって!エロいけどな!」
「そんなもん、どうやって上演すんだよっ!そもそもこれ、発禁本だろう!」
「失敬な!ちゃんと御公儀公認や!」
「嘘つけ!」
 反政府色の濃いものや風紀を乱す作品は総じて取り締まりの対象となる。艶本などの類は内容が過激であるほど人気も高いが、比例して発禁処分になる為、秘密裏に出版されることが多い。助平大魔王の大丸がエロいと公言するぐらいだから、内容の過激さは折り紙付きだ。そんなものが幕府の検閲を通るとは到底思い難い。伊勢丹が嘘つき呼ばわりするのも無理もないことだった。
「…伊勢丹」
「はいっ!三越さん、なんですか?」
 それまで黙って頁をめくっていた三越が本に目を落としたまま伊勢丹に声をかける。その声は静かだが、何か感情を押し殺しているようだった。
「大丸!三越さん怒ってるぞ!温和な三越さんを怒らせやがって!三越さん、お怒りはもっともです。どうしますか?大丸を奉行所に突き出しますか?」
 血気づく伊勢丹に三越は一言。
「…少し、静かにしてくれないか?」
「…すみません」
 まさか自分が咎められると思わなかった伊勢丹は、塩を振られた青菜のごとくしゅんと小さくなった。
 艶本を読む三越を正視できず、伊勢丹は先程投げ出した続きを読み始めた。夢中で読み進める途中「なんや、三越さんも意外と好きもんやったか」と呟く大丸の脛を蹴り飛ばすことを忘れない。
 確かに中身の半分近くが濡れ場であり、下半身が大変なことになるような扇情的な文章だが、内容は非常に面白かった。性描写を一切なくしても物語として十分に成り立つものであり、むしろ入れなければ大々的に出版できたに違いない。実に惜しい名作だった。
 どのくらい時間がたっただろうか?三越は顔を上げ、大丸に声をかける。
「次回作はこれで行く。大丸、この作者に上演許可をもらいたいんだが」
「あ~さすがに作者まではなぁ…。でも、これの版元を介せば交渉できると思うで」
「版元はどこだ?」
 問いかける三越に、大丸が口ごもる。
「それが…四ツ目屋なんだわ」
「草紙屋じゃないのか?」
 三越が目を丸くする。

更新日:2016-07-10 14:13:26

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook