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奴は、メーノ・モッソの美しいメロディを弾き始める。昼間ピアノを弾いていた彼女の繊細で美しい姿を、奴の大きな手で包み、太い指でゆっくりと優しくなぞるように。

その旋律は、どこまでも甘く、そして、いつか奴がこぼした涙のように切なかった。

僕は練習室の隅に座り、煙草に火をつけて、ピアノを弾く奴の姿をずっと見ていた。

奴は恐ろしいほど本気だ。

彼女を抱きしめたいとか口づけしたいとか、あるいはすべてが欲しいといった男の自然からくるものを超えて、奴にとって彼女は何か大切な宝物のようなものとして奴の中に存在している。

これまでにみたことのない、奴の男としてあまりにも純粋な部分を見て、僕は少したじろいだ。

僕は、彼女の唇を奪ったことを悪かったと感じた。

奴の恋に負けたと思った。


更新日:2016-07-18 10:10:43

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ダーヴィト・ラッセン回顧録 オルフェウスの窓ss Op.5