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挿絵 500*722

【Photo: Eyzen Photography】



金曜日の夕方は、僕ら寮生たちはみな街に繰り出す。
その日は、僕は自分の部屋でワーグナーの「芸術と革命」を読みふけっていて、気がついたらだいぶ遅い時間になっていた。金曜日の夕方はたいてい奴が飲みに誘いに来るが、今日は来なかったから時間に気づかなかったのだ。

奴を探しに部屋に行ってみるが、いない。
いつも煙草をふかしている裏庭への出入り口のあたりにも見当たらない。
さてどうしたものかと思いながら寮の廊下を歩いていると、寮生用の練習室で誰かがピアノを弾いている。バラードの1番だ。ちょっとぎこちない。ピアノ科の生徒ではないな、誰だろうと思ってのぞくと、奴だった。

僕に気がついて振り向いたので、
「大ヴィルトゥオーゾ・ヴァイオリニストのクラウス・ゾンマーシュミットが、ついにピアニストに転向か。」とからかうと、
「いや、今のピアノ科の課題曲で、あちこちでみんなが弾いているから、ちょっとおれも弾いてみたくなっただけだ。」と下手な言い訳をする。
あちこちでみんな?そうじゃないだろ、彼女だけだ。今日も陰からずっと姿を追っていたんだな。

「このメーノ・モッソのところは簡単だし、きれいだよな。」
「ああ、おれでもすぐ弾ける。」
「メシに誘いに来たんだが、今日はやめるか。」
「いや、あとちょっとだけ弾かせてくれ。そうしたら一緒に出かけるから、待っていてくれ。」
「わかった。煙草もらうよ。」と、僕はピアノの譜面台の脇に放ってあった奴の煙草を取った。

更新日:2016-10-16 13:05:33

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