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第8話 春の宵~ショパン バラード第1番

挿絵 497*501

【Photo: Avalon010】



あれは、金曜日、うららかな春のことだった。

僕は彼女と練習の約束をしていた。
僕が少し遅れてレッスン室に着くと、彼女は、窓から差し込む柔らかい陽射しのなかで、ショパンのバラードの1番を弾いていた。

ピアノ科の課題曲の一つらしい。
「ショパンでは、バラードか、スケルツォ、ポロネーズからどれかを選ぶことになっていて、バラードの1番を選んだのは僕だけなんだ。スケルツォの2番とかいい曲がいろいろあるから選ぶのが難しいけど、僕はこの曲をいつか弾きたいと思っていたから今回選んでみたんだ。でも、最初の方はいいんだけど、途中からちょっと難しいところが出てくるんだ。」と言う。
僕も昔、弾いたことがあるから「どれ。」と聞くと、6ページ目の華やかな展開部の右手の和音がうまく弾けず、ミスタッチをしやすいと言う。

改めて手をみると小さい。手首も細くて、明らかに女の子の手だ。僕の母よりも小さいかもしれない。指がやっと届く程度だから和音がうまくつかめない。
「思い切ってこの和音のこの音は外してみたらどうだ。その方が確実だ。それから、こっちの和音の指使いはこうした方がいい。」と言うと、早速やってみている。
音に余裕が出て、堂々と弾ける。
「言うとおりだね。ありがとう。」と、素直な笑顔でこちらを見る。

ショパンのバラードの1番。楽譜にして14ページほどの曲だ。
4ページ目のメーノ・モッソ(速度を緩めて)のところで美しいメロディが歌われる。テクニック的には易しく、弾き手の思いがこもって個性が現れるところだ。

「ここ弾いてごらん。」と言うと、彼女らしい切なさと甘さが入り混じった美しいピアノを聞かせてくれる。
「さっきのところは、これの展開だから、ここからの流れを意識して弾くといい。」と、僕なりの考えを言うと素直にうなずき、弾き始めた。

華やかな、でも苦しさと切なさで悶えるような音楽になっていく。
彼女は勢いでそのまま最後まで弾ききった。久しぶりにいいバラードを聴いた。

https://www.youtube.com/watch?v=RR7eUSFsn28
【Chopin, Ballade No.1 by Krystian Zimerman】
(メーノ・モッソは3分16秒あたりからです。)


更新日:2016-10-16 13:04:34

ダーヴィト・ラッセン回顧録 オルフェウスの窓ss Op.5