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小説

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挿絵 432*640

【Photo: Karen Crowther】



渡り廊下を通って、土曜日の誰もいない静かな校舎に入る。
薄暗い廊下は、雨の湿った匂いがする。

レッスン室に着くと、奴はグランドピアノの大屋根のふたを開けた。
こいつ、僕の傷に塩を塗るつもりかと一瞬思ったが、久しぶりに指を置いた白鍵のしっとりした感触がひどく懐かしかった。

「おれが右手を弾いてやるから、何でも好きなものを弾けよ。」と奴が言う。
誰かが置き忘れたベートーヴェンのピアノ・ソナタ集が目に入った。
「それじゃあ、ヴァルトシュタインはどうだ。」
「よしいこう。」
懐かしい楽譜を開く。あの頃よく弾いていたヴァルトシュタイン、21番のソナタだ。

椅子に並んで座って、奴が右手、僕が左手を弾く。

第1楽章、小刻みなリズムの主題が続き、その後やってくる、天から降るような美しい和音。
ピアノの広い音域を縦横無尽に使って奏でる音楽。
僕は、この曲がとても好きだったことを思い出した。
ピアノの鍵盤の感触と深い低音の響きに、自分が生きてこうやって美しい音を奏でられること、生きていることの美しさを感じずにはいられなかった。

ゆったりした第2楽章の終わりに近づいたとき、僕はしまったと思った。
続く第3楽章は、右手と左手が何度も交差するのを思い出したのだ。

案の定、弾き始めると、お互いの腕がぶつかる。
「おい、じゃまだ。」
「うるさい、第3楽章がいいんだから黙って弾け。」と言いながら弾いていく。

おまけにこの楽章には、右手で弾く何小節もの長いトリルがある。一番長いのは、38小節にわたって親指と人差し指でトリルを弾き続ける。
奴は、
「この長いトリル、何とかしてくれよ。」と弾きながら叫ぶ。
「ここが一番いいところなんだから、文句を言わずに続けろ。」
「くそったれ、ベートーヴェンの奴、こんな悪魔のようなトリルをつくって、勘弁してくれよ。手がしびれてきたぞ。」
「天上のトリルだ。ありがたく弾け。」と言いながら、僕らは弾き続けた。

ようやく終わりまでたどり着き、最後の和音を一緒に弾き終わると、二人ではじけたように大笑いをした。
「こんな姿は、下級生たちには見せられないな。」と言って、また笑った。


https://www.youtube.com/watch?v=JLmSpBsDxdk
【Beethoven, Piano Sonata Nr 21 'Waldstein' by Wilhelm Kempff】
(第3楽章は14分あたりから、一番長いトリルは22分47秒からです。)




更新日:2018-02-03 14:25:37

ダーヴィト・ラッセン回顧録 オルフェウスの窓ss Op.5