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いつもあの音楽学校でしていたように、廊下の壁に寄りかかってあいつのピアノを聴く。
広間に差し込む夏の光に、ショパンのバラード。10年以上前、あの頃のことを思い出す。
濃い緑に彩られた川面に反射する明るい陽射し。ボートに誘った日のこと。
秋にはロシアに戻ることが決まった頃だった。
おれがロシアに帰るタイミングについては、同志の間では議論があったようだ。アルラウネは、早く帰るべきだと強硬に主張したらしい。他方、まだ若いし、兄貴の事件との関係で依然として危険だという意見もあった。アルラウネは、帰国後の組織の中でのおれのポジション、要するに出世を考えると、今のうちに帰った方がよいという発想だったらしいが、もしかして、おれの心の揺らぎを敏感に嗅ぎ取ったこともあるのかもしれない。
そうこうしているうちに、追っ手が迫り、包囲されつつあった。組織の上層部からも、若い人手が必要だから帰ってきてほしいという要請があった。
おれは、なんとなく気が進まなかったが、結局、帰国が決まった。
もう本当に会えなくなる。二度とあの姿を見ることも、ピアノを聴くこともない。
それなら、いっそ、その前に激しいこの情熱に身をゆだねたい。夏のあいだずっと甘い水蜜桃を吸って、吸いつくしたい。禁断の木の実をかじったアダムとイヴのように、その後は楽園を追われることになっても。
あの窓の伝説にしたがって、いずれ別れることになるのだから。
この夏の間だけでも、おれを受け入れてほしい。おまえを受け止めたい。
この狂おしい思いに、自然の欲するところに、すべてをゆだねたい。抱きしめて、口づけて、からだのすみずみにまで触れたい。夏に向かって日が長くなるにしたがって、その思いが強まるばかりだった。
あの日、おれは、川岸で何か書きものをしながら考え込んでいるおまえを見つけた。暑くなっているのにいつものように制服の上着を着て、草地にうつ伏せになってしなやかな肢体を伸ばして。
あの上着をはぎ取って、抱きしめて光のなかで一緒に溶けてしまいたい。
ボートに誘った。女だと言わせたかった。そうしたら、おれは、そんなことは知っていたと言って、抱きしめるつもりだった。
そして、狂おしく愛し合いながら、おれたちだけの夏を一緒に過ごそうと思っていた。
でも、今思うと、おれは、まだわかっていなかった。もし、そうなっていたら、おれたちは二度と離れられなくなることを。
いや、おれたちは、そもそも離れられなかったんだ。
更新日:2016-07-29 23:23:26