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 そして、あの晩、眠ったあいつを抱き上げたときの想像以上の軽さ。
 シャツを通して伝わる体温。
 月夜の寝室の窓越しに揺れる金色のミモザの花の房。
 使用人に目で合図をして下がらせ、ベッドに寝かせたときに感じた甘い吐息。
 上着を脱がせて触れた細い肩の感触。

 靴を脱がせると現れた小さな足。
 靴下も脱がせて白く冷たい両足の甲に片方ずつ口づけたこと。
 その途端、強烈な衝動に襲われて、きつく結ばれたシャツのボウを解いて、細い首筋に激しく唇をおしつけてしまったこと。
 ボタンを上から三つだけ外して白い胸に陶然としたこと。まぶしい胸にそうっとキスしたこと。薄桃色の乳首の今も舌の先に残る感触。
 不意に涙がぽたりと胸に落ちたこと。それを指でなぞって広げたこと、あいつの体にしみこんでいくように。
 それから、ボタンを閉じてボウを緩く結びなおしたこと。眠る美しい頬に口づけたこと…。
 すべてが今も鮮やかだ。ショパンの激しいコーダが胸を締めつける。感情があふれる。


  https://www.youtube.com/watch?v=bvtdjIIcgWQ
  【Chopin, Ballade No.1 by Valentina Lisitsa】

 
 もう一本、煙草に火をつける。ベートーヴェンのスプリング・ソナタが聞こえてきた。リクエストもしていないのに、おれの好きな曲、いやあいつが弾いていた曲が続く。ダーヴィトとよく合奏していたな。
 ヴァイオリンの音は聞こえない。ピアノのパートを一人で練習しているのか。ヴァイオリンのパートは、ここでおれがハミングしてやるよ。

 おれの時間はシベリアで止まっていたが、その間、あいつには多くの時が流れただろう。今どうしているのか。
 当時は、父親が亡くなって間もなかった。今ごろ、アーレンスマイヤ家の女当主として、持ち前の負けん気で事業に辣腕をふるっているのだろうか。
 それとも、豊かなピアノの音を響かせながら子どもたちと一緒に合奏し、微笑んでいるのだろうか。あの美しいバイエルンの古い街で、あるいはアルプスを望む緑豊かな丘で。
 おまえはおれのものにはならない。でも、おまえは永遠におれのものだ、どこにいても。ロシアとドイツ、2千キロの距離を隔てていても。

 次は、ドビュッシーの「月の光」だ。ああ、これもいい曲だ、と思ったら、歩哨が近づいてきた。顔を見られないように、鳥打帽を目深にかぶり直し、その場を立ち去った。この屋敷はガードが固く、詳細不明として、上層部に報告しよう、そう思いながら。









更新日:2016-07-07 23:48:44

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ショパン・バラード第1番 オルフェウスの窓ss Op.4