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小説

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第1章 それぞれのバラード

 シベリアから戻って数週間経った頃、おれは上層部の指示でサンクト・ペテルスブルクの大邸宅が立ち並ぶ地区に行った。政府要人の住むいくつかの屋敷の構造や見張りの状況を調べて報告せよというのだ。将来の突撃を念頭においたものだ。
 大きな屋敷で育ったのだから、大邸宅の構造はわかるだろうということらしい。確かに、たいていの屋敷は似たり寄ったりだから、建物の形や窓の数をみれば間取りはだいたい見当がつく。あまり気が進まない仕事だが、おれに比較優位があるからしかたがない。組織というものはそういうものだ。

 美しい街路樹の道路沿いに大きな邸宅が並ぶ。そのうちの一つの周囲をぐるりと回る。うっそうと緑の茂る庭の側にも小道がある。小道と建物の間の距離は意外に近いが、高い鉄柵と棘のある灌木で侵入を難しくしており、警備にぬかりはない。
 ふと耳を澄ますと、ピアノの音が聞こえる。生の楽器の音を聞くのはいつ以来だろう。ドイツの最後の晩のピアノだったか。少し近くに寄ってみる。ショパンのバラードだ。
 煙草に火をつけた。白い煙を静かに吐く。シベリアでもずっと頭の中で鳴らしていたバラードと同じ弾き方だ。そう、あの音楽学校であいつが弾いていたバラードと同じ、音の色合いもニュアンスも。

 とたんにあの頃に引き戻される。
 金色に輝く髪。
 カーニヴァルのあの日、薄暗がりで見た白い胸。
 春の宵、練習室で弾いたピアノの白鍵の感触。
 初夏の光とボート。
 枯葉のにおいと初めて触れた柔らかい唇。

更新日:2016-07-07 23:47:12

ショパン・バラード第1番 オルフェウスの窓ss Op.4