• 2 / 21 ページ

2、異邦人ーⅡ

 
 
 弟『アルラウネ』

愛する人を失っても、忘れたことは一日たりとしてない。ドミートリィは私の全てだった。思春期を迎えた、自分とそっくりの面差しを持つ弟を彼は私に託していった。
背ばかり伸びたバイオリン好きの繊細な少年。アレクセイは学生生活の中で驚くほど変わった。男子校だからか、言葉使いも態度も雰囲気も本当に男っぽくなった。生来の性格なのだろう明るく闊達で、何より自分を譲らない芯の強さを持っていることに次第に気づかされた。
知性の塊のような私の父ですら、アレクセイを幼い頃からいたく気に入りかわいがっていた。あの厳格な侯爵夫人とドミートリィも、心から彼を慈しんだ。その理由が今では私にもよく分かる。
生きる活力に満ちた前途有望な愛する弟を、正しく導くことができるのか。時々心細くなる。それでも勇気をふりしぼって、愛した人との約束を果たしていこう。



 兄の遺志『ヴェーラ』

兄の言いつけ通り、ドイツにある実家までユリウスを無事送り届けた。姉だという実直そうな婦人にも会えた。穏やかな暮らしがいつの日か彼女の心を癒してくれることを、願ってやまない。
兄の愛した女性、ユリウス。去ってからも、他の男と結婚してしまっても、それでも愛していた。兄の最後の頼みごとが彼女になるとは。おにいさま、あなたとの約束はこれで守れましたわ。
万が一に備え、兄はスイスに口座を持っていた。ドイツに行った後はスイスに立ち寄り、管理を任せてある関係者に会うよう指示をされていた。亡命しても何の不自由もないように、準備は整えられていた。全くあの兄ときたら。ぬかりなどなかった。
故国に戻ると言ったら、正気の沙汰ではないと返されるだろう。いまだ行く末の定まらない、混沌状態の国。それでも私はロシアに戻る。まだやらなくてはならないことが、私を待っているから。



 聖女の呟き『アナスタシア』
 
彼ら兄弟が愛した、この美しいバイオリン。彼らの愛器から、私はどれだけ多くの力をもらっただろう。心から望んだわけではない結婚生活やバイオリニストとしての舞台、どんな時も私を支えてくれた。
アレクセイもドミートリィも、この名器をきっと愛してやまなかったことだろう。なのにあの素晴らしい弾き手たちは、弾く機会を奪われてしまった。亡くなった私の夫のせいで。

長い収容所生活に耐え、あの人はついに自由の身になったと聞いた。ロシアに帰ってアレクセイに会い、できることなら言葉を交わしたかった。彼の親友から預かった言葉を伝えるためにも。

ここ音楽の都で、私は有り難いことにバイオリンを奏でる幸運に恵まれる。人づてに、アレクセイからは親友への伝言を言づかっていた。あの彼が私に託した頼みごと。ロシア人にとって国交上政治情勢が厳しいオーストリアにわざわざ立ち寄ったのは、彼とのその約束を果たすためだった。リサイタルを開くなど考えの外だったのに、舞台に立つことができたのはほとんど奇跡だ。全てヴァイスハイト氏のおかげだった。愛器のストラディバリを携え、親友のピアニストと共に、音楽の聖地で舞台に上がる。それはまさにアレクセイの生きるはずだった、もうひとつの人生に違いない。アレクセイが味わうべき栄光と歓喜を、私は彼に代わって享受した。その時本来あるべき姿の彼と私自身が重なったように思えて、深い感慨に打たれた。私にとってこれ以上の幸福があるだろうか。神に感謝するよりほかにない。

アレクセイが伝言した相手イザーク・ヴァイスハイト氏は、天才的ピアニストで人柄も温厚な好人物だった。私はアレクセイと彼がどれほど厚い友情で結ばれていたのかを、うかがい知った。以前ユスーポフ邸で会ったあの輝く金髪をした女性から聞いた通り、アレクセイがいかにすばらしいバイオリニストでかつ愛されてやまない人物だったか氏と会ってあらためて分かり、本当に嬉しかった。そして苦難を歩む彼に、人生の幸福な時間が与えられ謳歌されていたことを、心から喜ばずにはいられない。ドミートリィと同じく、その惜しむべき才能が世で果たされなかったという残酷な悲劇は別にしても。


アレクセイ・ミハイロフ。幼い頃よりずっと私が愛し続け、追い続けた人。人見知りで引っ込み思案だった私に、生きる勇気と情熱を彼は示してくれた。その上バイオリンというかけがえのない生きがいに、導いてくれたのだ。だからこそ、これまで生きてこれたのかもしれない。私は十分自分を生きて、幸せだった。アレクセイが無事救出された今、思い残すことはなくなった。無実の人に罪を着せて生きていくなんて。それでは他人の不幸と引き換えに人生を得た、かつての夫と同じになる。彼があんな亡くなり方をしたのは、どこか神の裁きのようにさえ思えるのに。これ以上人が不幸になっていくのを見過ごしたら、私はきっと救われない。

 

更新日:2017-10-15 15:08:24

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook

巡り会い【オルフェウスの窓ss Ⅲ 】