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Ⅷ、ミモザの香る夜



ミュンヘンに着くと、馬は預け、クラウスは上着を調達して、辻馬車に乗り換えた。そうして着いた先は、ミモザの咲き誇る壮麗な邸宅だった。


バイエルンの州都に居を構える館、というべきだろうか。館に着くとアルラウネが出迎えてくれた。艶やかな装いがいっそう美しい彼女は、クラウスの帰宅を待ちわびていたのだろう。庭にはミモザが咲き乱れ、闇夜にも明るい輝きを放って、かぐわしい香りを漂わせていた。アルラウネのまとっている香りだ。そして館はあのフォン・べーリンガー邸だったと知らされ、驚く。

フォン・べーリンガー伯含め、一家全員がスパイ容疑で射殺されるという、忌まわしい過去を持つこのミモザ屋敷。曰く付きの住まいは、活動家の彼らにとって好都合だったのだろうか。偶然にしても、なんという因縁だろう。


夕食にはロシア料理が用意されていた。クラウスのために用意されただろうロシア料理。彼がまぎれもないロシア人なのだということに、改めて直面する。ロシア人と聞かされても、ぼくにとってはドイツ人クラウス・ゾンマーシュミットでしかなかったのに。彼がやって来た遠い国のことを思った。料理はとても美味しかったが、シンプルな味のドイツ料理に比べると濃厚で際立っている。その場ではぼくだけが異邦人で、それ以上に彼らには立ち入ることのできない厳とした世界が横たわっていることを、静かな夕食の間意識した。






夜の寛ぎのひととき、どこからかバイオリンの音が聞こえてくる。秋の終わり冷たい空気の中で、音は震えるように響き冴え渡る。彼はバイオリンと語らっていた。それとも、語り合っていたのは彼自身とだったのだろうか。神にも届きそうなその音色には誰も触れられない気がして、聞き入るばかりだった。それでもクラウスのバイオリンに導かれサロンに顔を出すと、彼はぼくを待っていた。



ぼくのレパートリーに合わせ、二人で「ロマンス」を奏でる。最初で最後になった彼との演奏。聖ゼバスティアンで、クラウスのバイオリンに憧れない者などいなかった。最高のバイオリニストである彼との共演に、胸は高鳴り心が躍った。どれほどこの瞬間に焦がれただろう。あの至高の音色と共に自分のピアノが鳴っていることが、夢のようだった。しかしその曲が終わりまで演奏されることはなかった。今生の別れを前にした演奏に、ぼくたちは耐えられなかったからだ。













 
 

J.S.Bach, Partita No.2 Dmoll BWV 1004 Chaconne

Beethoven, Romonce No.2 Fdur Op.50




https://www.youtube.com/watch?v=Ipe7thXd69E

[Vn:Arthur Grumiaux、Chaconneのみの演奏、11分24秒辺りからです。] 

 

                            

更新日:2018-01-03 01:29:44

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