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(9)「日本人総引き揚げ」

挿絵 463*313

「日本人総引き揚げ」

その年の12月、再びINCINCAの一人の役員が拉致されるという事件があった。はじめの拉致で人質に死なれ、交渉の道具を失った反政府組織の、再度の試みであった。あれ以後大使館は日本人全体に通達を出して、同じ時間同じ道を通うことはゲリラの目標になりやすいから避けるようにという忠告を出していたが、前例をなかなか変えない几帳面な日本人の癖はゲリラにのみこまれていたらしい。彼は私の生徒の父親だった。この2度目の拉致事件は、決して真相を明かされることはなかったが裏取引によって交渉が成立し、彼は生きて返された。これによってINCINCAの日本人は全員引き上げを決定した。

当然のことながら、補習校は閉鎖され、私は職を失った。いろいろ問題もあった人間関係だったけれど、日本人がすべて引き上げるとなったら、私はさびしかった。彼らはたくさんの日本の食器だとか生活必需品を私の家に残して去っていった。まるで鬼界が島の俊寛よろしく、私は日本人と日本文化を背負った集団を見送った。私は日本人を批判しながら、日本文化から離れられない自分の事を知っていた。これから全面的に向き合わなければならない異文化の渦の中で、自分がどのようになっていくのか自信がなかった。愛する相手は主人しかいなかった。主人一人を見つめて生きてきたいままでの暮らしで、仕事もなくほかに人間関係もなく、長続きするはずがなかった。

依然触れたことのある、エルサルバドル大学で日本語を教えていた日本人講師の後を何とか受けて、自分にその仕事ができないか交渉をしようと思った。こういうときの事を予測して私は昔教えた高校から紹介状を頼んでおいた。教頭の日本語の紹介状とそれを英語に翻訳してくれたU先生の文とが送られてきていた。私は自分の経歴と教員免許状などの資格をそれにつけてその講師に渡し、大学で仕事を斡旋してくれないかと頼んだ。

しかし大学もゆれていた。大学は反政府運動の温床と見られていたから、軍隊がいつも大学の周りに配置されていた。日本人の講師も、大学で授業ができなくて、自宅を開放して学生に日本語を教えていた。スペイン語と日本語は母音の数が同じだから、若い彼らは非常に早く上手に日本語を習得し、それを続けたがっていた。私はその後を引き受けたかったのである。

彼らがいなくなる12月、私は去年買った幼子イエスの像を部屋の隅に飾った。ゆりの花とカーネーションをいけて、厩で生まれたイエスを模して籠に草を敷き詰め、柔らかい布を毛布のようにおいてその中に幼子を寝かした。主人がそれを見て、きれいなバラだねといったが、彼はゆりのことをマーガレットといっていて、いつものことなので、そうそう、きれいなバラでしょ、といって知らぬ顔をしていた。彼は今でもチューリップのことをカーネーションといっている物理学者である。

今年は付き合っていたすべての日本人が引き上げ、仕事も失って孤独がひとしおだった。残るは、海外青年協力隊の一団と、私のように国際結婚した日本人女性だけだった。おなじ国際結婚でも男性が日本人の場合は、問題なくエルサルバドル人の妻ヴィザが出るが、女性が日本人でご主人がエルサルバドル人の場合は、日本人の妻がどんなに億万長者でもエルサルバドル人のご主人にヴィザを出さないのが日本国の方針だと、当時の日本領事が言っていた。だから、「現地人」と結婚した日本人妻は、どんなに内乱が激しくて身に危険がせまっても、現地に残らなければならなかった。

勢い私はこの居残り組と付き合い始めたが、だんなさん同士に接点がなくて、住んでいる地域もばらばらだったから、ほとんど出合うことはなかった。

それで私は始めてせめて自分の分身がほしいと思った。子供がほしいと、私は心から思った。そのため、その年の幼子イエスはなんだかひどく意味があるように思えて、じっと見て暮らした。ある朝その幼子イエスの像の入った籠のふちに緑色の葉っぱのような物がついていた。あんなところに葉っぱを飾った覚えがないのになと思って近づいてみると、それはエスペランサという名の虫だった。「うまおい」である。日本の秋の虫と同じ物に初めてであって、ちょっと喜んだ私は、エノクに見せた。彼はその虫を見てにこにこしていった。「いい事が起きるぞ!」

更新日:2010-05-06 08:07:02

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「エルサルバドル内戦体験記とその後」