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第2章 秋は戯れ

 何故この曲にしたんだろうと、芹歌は弾きながら考えていた。
 最初の年は、ショパンのワルツ第3番を弾いた。暗い曲だ。
精神的なダメージが大きな頃だったから、とても明るい曲や
スピード感のある曲を弾く気にはなれなかった。
 次の年はチャイコフスキーの舟歌だ。綺麗な曲だが弾こうと
思えば中級者でも弾ける。静かで矢張り少し暗めで、翌年は
もっと明るく華やかな曲を弾いて欲しいと生徒や保護者達から
言われて、リストの愛の夢第3番を弾いた。よく知られた曲だが、
明るく華やかな曲とは言い難い。そう暗くはないが、どこか
切ない。そして去年はショパンのワルツ第1番、華麗なる
大円舞曲にした。良く知られた華やかな曲だ。
 そして今年は、再び元に戻ったような曲。元々とても好きな
曲だ。ワルツやノクターンの気分じゃなかったから選んだ。
それだけの事だ。そう思う。だが、心の底で何かが問いかける。
弾きながら胸が切なくなってきた。どうしてこんなに、切なく
なるのだろう。今日の発表会は成功したと言えるのに。
 心配の種だった何人かの生徒達も、何とかソツなくこなして
くれた。それ以外の生徒達も良く頑張ってくれた。中でも
神永はリハの時よりも遥かに良くて驚いた。あんなに集中して
弾けるとは。本番に強いタイプなのか。
 演奏が終わって、驚く程の拍手が会場を包み、神永は目を
丸くして驚いていた。まるで夢から覚めたような顔をしていた。
そのままお辞儀をして舞台袖に戻って来た時、芹歌の顔を見て
気恥ずかしそうな顔をして、通りすがりに言った言葉。
「あなたを想いながら弾きました」
 お疲れ様、凄く良かったわよと声を掛けるつもりだったのに、
何も言えなかった。僅かの間、固まった。その後すぐに振り
向いたが、客席へと戻る彼の後姿が暗闇の中へと消えてゆく
所だった。

更新日:2015-11-01 14:56:31

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