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第1章 夏は暁


「どうしたの?何かあった?」
 芹歌がショパンの幻想即興曲を弾き終えた時、恩師である
渡良瀬恵子が言った第一声だ。心配そうな瞳が芹歌を見つめている。
「いえ……」
 芹歌は俯いた。確かに心が乱れている。ざわついて落ち着か
ないから集中できなかった。
 原因は分かっている。
 昨日来たメールだ。大学時代の友人である中村久美子からだった。

 “真田さんが帰って来てる!急きょ、帰国リサイタルが
開催される事に決まったって。7月12日、サントリーホール。
チケット取れそうだから、芹歌も行くよね?”

(真田さんが帰って来てる……)
 芹歌は携帯を握りしめた。複雑な想いが頭をめぐり心が
ざわついた。その状態が今も続いている。
「お母さんの具合が良くないの?」
「あっ、それは大丈夫です」
 芹歌は慌てて否定した。
「そう。それなら良いけれど、あなたも大変よね。本当なら、
留学してたっていうのにね」
 渡良瀬恵子は軽く頭を振った。困ったものだと、動作で
語っている。
「先生、すみません。なんか雑念が入っちゃって。
弾きなおすので、お願いします」
「わかったわ。じゃぁ、始めて」
 芹歌は頭の中にある諸々の思いをリセットするように大きく
息を吸い、これから弾く曲の事を思った。
 幻想即興曲はショパンが作曲した即興曲四曲の中の最後の
曲で、彼の死後に友人の手によって発表された曲だ。ショパン
自身はこの曲を失敗曲と思っていたのか、世に出さないで
欲しいと頼んでいた。ベートーベンのピアノソナタ「月光」に
似ていると言う事で気に入らなかったのではないかと言われて
いるが、本当の所は分からない。

更新日:2015-10-22 09:21:30

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