• 5 / 8 ページ

回想  高校時代

その後、中学3年になると、徐々に進路の問題が頭をもたげて
きます。

私は、いっぱし進学するために普通科を目指すことにして、
ひととおり勉強のほうに意識を傾注するようになりました。

一方、進学を望まない就職組志望のA君やH君は、それぞれ
農業高校・工業高校への道に進んで行きました。

中学生ともなれば、小学生の頃のように、放課後無為に集まり
無心に遊ぶなんてことは滅多にありません。

卓球部もやめてしまったし、A君にしろH君にしろクラスも
別々となり、徐々に交流の機会も減って行きました。

それは中学を卒業してからも同じ、というより、それぞれが
志望した高校にあがってからはますます顕著になっていきま
した。

わすが1キロ四方の距離に住んでいるのに、不思議と会うこと
はありませんでした。

さらに、小学校の頃始めた釣りは高校に入ってからは滅多に
行くこともなく、釣り仲間のA君と会うこともなくなりました。

ちなみに、その後A君は農業高校から北海道の酪農関係の短大
へ進学したそうです。
それは風の噂で耳にしただけなのですが…。

また、H君とは中学卒業以来やはり一度も会うこともないまま、
これまた噂で、工業高校を卒業後、大手自動車メーカーの整備
工要員として就職した…と聞いていました。

ちなみに、私はどうにか進学校の普通科に入学できましたが、
1年生のときは存外「大衆の中の孤独」ともいえる疎外感にさい
なまれました。

というのも、クラスの同級生は学区内の各中学校から選抜されて
きた精鋭ばかりで、どいつもこいつも「生き馬の目を抜く」よう
な雰囲気があって、私はなかなか気が許せなかったのです。

そのため、1年生のときは授業が終わればさっさと帰宅し「ぎん
ざNOW」を観て、それから5時半を過ぎると原付に乗って、
特にあてもなく出かけました。

自宅から10キロ~20キロの間に、ちょうど野山や海岸があって、
つまりバイクで走るには恰好のドライブコースがあったため、
私はアタマの中を空っぽにするために毎日、都合30キロくらいは
バイクで走り回りました。

しかし2年からは、クラス(生徒)が文系か理系かで大別され、
1年の頃とはかなり様相が変わりました。

私は、都合文系のクラスを選びましたが、文系志望と理系志望と
では、明らかに生徒の意識が違う…というか、感性の違いを感じ
ました。

とりわけ、1年のときは、無機質で希薄な個性ばかりが集まった
ようなクラスだったのに対し、2年のクラスにはずいぶんと情熱
的で個性あふれる生徒がひしめき合っていたように思います。

そのためか、たまたま巡り合わせだったのか、私には、特に気の
合う仲間が4人できました。
というより、自然と私たち5人が意気投合したのですが…。

ちなみに、もうその頃には、私は大学受験を念頭に置いて休み
時間には「でる単」や「豆単」と睨めっこをして過ごし、放課後
は図書室で時間の許す限り何か学習してから帰宅するようになっ
ていました。

というか、放課後私たち気の合う5人は、三々五々図書室に集まっ
てきては「大学への数学」やら「現代文ノート」の演習問題など
を解いて過ごしたのです。

しかし、私が意気投合した4人は、学業だけでなく遊びの方もまた
秀悦でした。

都合、私は高校3年までには仲間から正式な麻雀を教わり、おおよ
そ週末には誰かの家に集まって麻雀を打つようになりました。

さらに、ごくたまに日曜日はパチンコ店に出入りすることもあり
ました。

パチンコといっても、当時のパチンコは電動ハンドルがちらほら、
あとは「バネ式の手打ち」の台がほとんどでした。

すなわち、まだその頃には「ハネモノ」も登場しておらず、
パチンコ台といえば「チューリップの役モノ」がほとんどでした。

間寛平の「開けチューリップ」が流行ったのがちょうどその頃です。

更新日:2015-07-12 17:01:51

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook