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世直し党

70.世直し党①

 キム・ソンヒョンは、北朝鮮平壌の西に位置する信川(シンチョン)という町の裕福な家庭で育った。家にないものはなかった。ソンヒョンは、生まれたときからすべてにおいて恵まれていた。何人も使用人がいたから、小さいころから人を使うのが自然の流れだった。

 長男というだけで、兄は格別だった。

 長男が言うことすることは全部正しいのだ。長男には間違いがなかった。何をしても許されたからだ。

 小さい頃はこれがあたりまえとしか思っていなかった。

 あたりまえでないと思い始めたのは、チャン・イェフンに出会ってからだ。

 イェフンは、白丁(ペクチョン)の家の長男として生まれた。生まれた家には、生きていくために最低限必要なものすらなかった。

 米だ。

 配給米があるにはある。だが、誰がどういう配分をしているのか知らないが、家族を満腹にさせるにはほど遠かった。だから、いつも腹をすかせていた。イェフンは、満腹感とはどんなものかを知らなかった。

 そんな環境が違う二人が出会ったのは、まだ子供のころのことだった。

 ある日、イェフンが村のはずれを歩いていたら、チンピラが数人で誰かをいじめていた。イェフンは子供ながらにひきょうなことは許せない性格だった。

 助けようとそこに飛び込んでみたまではよかったが、多勢に無勢で相手は大人だ。さんざん殴られて気を失ってしまった。気がつけば、誰かが心配そうにイェフンの顔をのぞきこんでいた。それがソンヒョンだった。

 チンピラたちはとっくにいなくなり、二人だけがあとに残っていたのだ。

 イェフンが13歳、ソンヒョンが10歳のときのことだった。

 それから二人は急速に仲良くなり、何をするにも常にいっしょだった。

 ソンヒョンの通う学校は、高級官僚の子弟ばかりだから、これまでなんの違和感もなかった。

 ところが、イェフンと居ると驚きの連続だった。ソンヒョンにとっては何でもないことが、イェフンにとっては特別なことであり、イェフンにとっては何でもないことが、ソンヒョンにとっては特別なことだった。

 ソンヒョンにとって尊敬する対象はただ一人。首領しか考えられなかった。イェフンが尊敬するのは、ホンㆍギルドンなどの伝説の英雄だった。

 ソンヒョンは、そんな英雄の名前すら知らなかった。

 「尊敬する」「高貴なる」「敬愛する」などの言葉は、首領のためだけにある首領のもう1つの名前のような、朝鮮語固有の言葉だとばかりソンヒョンは思っていた。

 ところがイェフンは、「尊敬するホンㆍギルドン」とか「敬愛する母」とか、思うにまかせて自由に使っている。

 これは、ソンヒョンにとって衝撃的だった。

 しかし、子供の二人が全く知らないこともあった。

 上級官僚から最下層の人民にいたるまで、全居宅に盗聴器がセットされ、電話を所有している家はすべての通話が盗聴されているということだ。

 もちろん言論の自由はない。

 隣の家の者が突然いなくなったという話しをたまに耳にするが、これは自宅でした家族の会話に問題があったのだと、近所の住人は思っていた。

 自宅での家族の楽しい団らんの時間でも、細心の注意を怠ると、二度と帰れないことになるのだ。

 ただ、誰もそのことを口にすることはない。



 20年後の現在。

 ソンヒョンは、統戦部で仕事をしていた。

 最初、統戦部の事務室に入ったとき、ソンヒョンは驚愕した。統戦部の組織スローガンだ。

 それは「現地化」つまり韓国化だった。これまで野蛮で低級な敵国として叩き込まれてきた南朝鮮化など、考えられない。おぞましいことだった。

 しかし、事務室の机の上に何気なく広げられている韓国の新聞や書籍、広告紙は、まるで何でもないもののようだった。

 事務室には《平壌の中のソウルになれ》という首領の指針書を額縁に入れて丁寧に奉られている。

 そういうことなのだ。

 その指針どおり、統戦部は平壌の中にできたソウルだった。




更新日:2016-08-05 23:29:48

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《田川昂胤(こういん)探偵事務所❷「ウォンジャポクタン」》