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博多

12.博多①

 昂胤は、時間が許す限り、自分を鍛えていた。富士山の北西に位置する青木ヶ原樹海に、ナイフ1本だけ持って1週間こもる。

  全長36cm、刃長24cm、刃厚8mm、重量490g。

  抜群の切れ味とタフさを備えたコールドスチール社製のナイフは、昂胤の愛用品だ。鉈の代わりにガンガン使っても、刃こぼれのしない刃持ちの良さがお気に入りだ。樹海にこもっていることは、誰も知らない。ある日突然消える。1週間ほど経てば、ふらりと事務所に顔をだす。7日だったり、時には10日だったりもする。

  目つきが鋭くなっていることと頬がこけていることを心配そうに見ているが、いつものことだから、夕実も何も言わないし訊きもしない。

  昂胤は、樹海では、けっして人の近づかない奥深くに入り、生死ぎりぎりのところまで自分を追い込んでいた。

  山の斜面を1日走りとおしたり、高さ20メートル以上ありそうな大木の一番上に登って樹海を眺めて見たり、樹から樹に飛び移って移動し何日も地上に降りなかったり、大木の根っこに横たわって自分の気を消して丸1日動かなかったり。完全に気を消していると、それとは気づかず、ウサギやタヌキの小動物が昂胤の体の横を通過していくことがよくあった。

 最近では、急な斜面も、平地のように走れるようになった。樹から樹への移動も、難なくこなした。

 今やっているのは、直径30センチ程度の樹木との対決だった。20メートルほど離れた位置からナイフを投げて、その樹木を倒すのだ。時間を1時間と決め、突き刺さったナイフを取りに行き、元いた位置までもどり、また投げる。それをダッシュで繰り返す。

 樹木の一定の部分に突き刺さりはするのだが、確実に同じ場所に刺さらないと、1時間ではとうてい倒せない。これを続けていると、途中で何度も嘔吐する。しかし、昂胤は、止めたことはなかった。

 食料は自給自足だ。鳥やウサギをナイフ1本で捕獲する。一度で食べきらないから、乾し肉にして持ち歩く。

 傭兵時代、これ以上の過酷な環境で10年間過ごしてきた昴胤にとって、この程度の訓練にさして痛痒はないが、そうかといってやっておかないと、五感が鈍るのは目にみえていた。雄大がメンバーに加わったので、昴胤は、今度からは雄大も連れてこようと思っていた。

 アンダーソンは、ダンが何かしでかしそうだと言う。あれ以来何も起きていないが、インターネット、テレビ、新聞には、いつも目を光らせていた。5大紙の新聞の切り抜きをしている夕実には、特に海外の動向に注視するように言ってある。ダンが相手だとなると、相当覚悟をしておかなければならない。


 6か月後。

 雨が降り続いている。激しくはないが、体の芯まで濡らしてしまいそうな、うっとおしい雨だ。その老人が来たのは、そんな雨の日の午後遅くだった。

 雄大が応接コーナーに案内した。老人は、所長を訪ねてきたという。昴胤は出かけていて不在だった。どういう関係かはわからないが、老人は昂胤を知っているようだった。所長は今日は戻らないと言ったら、また来るからと言って帰ろうとしたので、せっかくだからよかったら話しだけでも聴かせてもらえないかと雄大が引き留めた。

 依頼人は、椅子に座りなおした。夕実がお茶を入れに立つのを、雄大は目の端でとらえた。


更新日:2015-03-13 19:55:35

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《田川昂胤(こういん)探偵事務所❷「ウォンジャポクタン」》