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葵サイド

俺は翌日朝早く起きて日暮里へ向かった。今はもう引退した先代の親方の自宅があるのだ。昨日の夜に話があることは、彼に伝えてあった。

「包丁?」
「はい。この包丁を以前お使いになられてた方のことを教えていただきたいんです」
彼は今風な二世帯住宅の片側に、一人で暮らしているようだ。俺を快く迎えてくれたのだが、包丁の件だと言うと怪訝そうに俺を見て言った。

「・・それを知ってどうするんだ?おめえは」
「ちゃんと成仏して差し上げたいんです」
俺がそう言うと、親方は濃くなった皺をさらに寄せて目を見開いた。
その後ゆっくりと寂しげに目を伏せ、包丁を見つめ言った。

「そうか・・心残りがあるのか・・」
「そのようです。思い当たることがおありですか?」
と俺が聞くと待ってるように言われ、親方は部屋を一度出て行った。

数分後に彼は「あった、あった」と言いながら、一冊の古いアルバムを持って戻って来た。

ページを捲り彼が指差したところには、店の暖簾の前で撮った集合写真の中に写る一人の男性がいる。いかにも頑固な職人らしいむすっとした顔をした男性だ。写真が古いせいで年齢はわからないが、体形などから30〜40代に見える。
「佐藤さんだ。俺がまだ駆け出しの頃世話になった先輩だよ。この頃は確かこの人・・煮方だったなぁ」

暖簾には親方が前にいた店の名前が入っていた。今も神楽坂にある一流の料亭だ。
「俺が25歳とかそのくらいの時に譲ってもらったんだ。そのあと俺が店を移っちまったからなぁ・・詳しくはわからねぇ。けどまだ若い時に亡くなったんだ。まだ50やそこらだったはずなのに、病気持ってたみてえで。風の便りで亡くなったって聞いてよ。俺も一度線香あげに行ったっきりだが・・」

「・・そうですか」
「佐藤さんは厳しい人だったぜ。自分にも他人にも容赦しねえんだ。んとに、とにかく鉄みてえな人よ。今じゃあんな根性ある男いねえよ」
「・・・そんなに」
耳が痛かった。この人は俺が鬱で休んでいたことをたぶん知らない。
知ったら情けないと思うだろう。この包丁も返せと言われるかもしれない。

「あの、何かお好きなものはありませんでしたか?お酒とか、珈琲とか」
「どうだかなー・・あんま記憶にねえな。飲めと言われれば飲んでたけどな、好きってほどじゃなかったな。口を開けば料理の話しか出てこねぇ料理一筋の人だったからよ」
と言って親方は笑った。
「・・そうですか」
俺が肩を落としていると、親方が言った。
「佐藤さんの子供んとこなら教えてやれるぞ?」
「はいぜひ、お願いします」

その後、親方に教えてもらった住所を頼りに、一時間ほどかけて向かった先は佐藤さんの一人娘の南さんと言う方のお宅だった。

「あらあらまあまあ、父のことで?」
と都営団地の玄関先に出て来てくれたのは、中年のどこにでもいそうなおばちゃんだった。

玄関先で良いと遠慮したのだが、部屋にあげ快く日本茶まで出してくれる彼女に、俺は礼を言って事情を説明した。

「この包丁に父が・・・」
彼女の目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
「そうですか・・」
「はい、出来れば成仏して差し上げたいので、嗜好品などありましたら教えて頂きたいんです」

俺がそう言うと、南さんは少し考えて言った。
「父はタバコもお酒も飲みませんでした。本当に忍耐強い人で・・母を幼い頃に亡くしてますので、私を育てるために無駄使いはっ・・一切・・しない人で・・」

南さんの瞳には涙が浮かんでいた。
そうだったのか・・。
そんな事情があるとは、きっと親方も知らなかったのだろう。

「好きなものもあったと思います。でも結局・・最後まで私は何もしてあげられなくて。気付いた時にはガンが全身に転移してしまっていて、少しだけあった貯金も治療に使いましたもので。こんなことになるならその治療費で何か好きなことをしてあげれば良かったと・・後悔しても仕方ないのですが・・」
「・・そうだったんですか」
南さんは、そう涙ながらに亡き父のことを話してくれた。

忍耐強い・・本当に強い人だったんだ。男一人で子供一人育てるのは大変な苦労があったに違いない。

それに比べて俺はどうだろう。
嫌なことがあったのを佐藤さんのせいにして・・ただ自分が弱いだけなのに。
南さんがタオルで涙を拭いている間、そんな自分が情けなくて俺は奥歯を噛み締めた。

「もしかしたら店の女将さんが嗜好品を知ってるかもしれません。長くあそこにお世話になっていたから、私より父のことに詳しいと思います」
「わかりました。行ってみます」
「ありがとう・・・秋山さん」
「・・いえ」
真っ直ぐに潤んだ瞳でそう言われたら、俺も涙が出そうになった。

「図々しいお願いですが、もしわかったら私にも教えて下さいませんか?」
「はい、必ず連絡します」
こみ上げてくるものを、喉の奥でグッと耐えて俺は力強く言った。

更新日:2014-05-11 20:07:32

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