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うちのペンションの裏には小さな鳥居がある。
いつからあるのかはわからない。
桜の木のすぐ横にあるそれは、人が腰を屈めてやっと通れるくらいの背丈で、昔は朱色だったであろう塗料がほとんど剥がれて、今は剥き出しの木がその形を辛うじて残している。

俺が産まれる前からここにあって、誰が建てたのかも何を祀っているのかもわからない。ただ昔はもっと朱色の部分があったのだけは覚えてる。

朝起きてすぐにここにお参りをするのが俺の幼い頃からの日課だ。
散った桜の花びらがピンク色の絨毯を作っている。その上に立ち、今日も一礼二拍手一礼して言う。
「今日も一日よろしくお願いします」
もの思いついた頃から父にやるように言われて、昨年の春まで二人で来ていたこの場所も、今は一人きりだった。

昨年ガンで亡くなった父の代わりに、この海沿いにあるペンション黒猫の経営を引き継いだ俺、新田 千尋 29歳。

築20年が経過して潮風で痛んでいた部分を補強し、俺好みの近代和風に変える改装工事を昨年末に終わらせた。
父が息を引き取る前に、そのために残してくれた貯金でやった。
おまえの好きなように作ればいい。おまえが愛せる宿にしなさい。
十代の頃に散々迷惑をかけたにも関わらず、父はいつも俺に優しかった。

そんな愛すべき父ちゃんのおかげで、俺は思い描いていた理想を手に入れたのだが、一つだけまだ足りない。
以前あった5部屋から、全室3部屋の半露天風呂付きの個室に改造したのは良い。その和風の部屋に見合うような、ちょっとした懐石を作れる料理人、板前さんを募集しているのだが、これがなかなか思うように見つからない。

面接は何人かしたのだが、給料が安いのがネックなようだ。俺の給料なんてあってないようなものだから、ほとんどそちらに回すようにしているのにも関わらず・・

「やっぱり日本料理って人件費もたけぇのかな・・」
フロントで頬杖をつき、パソコンと睨めっこしていたら、櫂が言った。

「こんまま素泊まりでやりゃいいじゃないっすか」
「馬鹿野郎っ俺の夢壊すんじゃねぇぞコラ」
「すんません」

この設楽 櫂と言う男は俺のダチの弟で、今の唯一の従業員だ。
改造工事の際にそれまでの従業員、と言っても二人だけだが、安定した給与を支払える約束が出来ないことを理由に、辞めていただいたのだ。

「千尋さんはあれ着て配膳するのが夢なんすよねー」
「・・ああ、着流しな・・」
いつ着れることやら・・。ネットショッピングでグレーと濃紺の着流し、タスキも角帯も買ってある。
以前も父が作った料理を俺が運んでいたので、配膳は出来るが何せ今、運ぶ物がない。

二件のお客さんのチェックアウトを済ませてから櫂が言った。

「あれ?でも今日面接入ってるって言ってませんでした?」
「おう、二時からだからその間フロント頼むわ」
「了解っす」
「またどうせ振られんだよ」
「またー・・元気出して下さいよぉ」
「はぁ・・おめぇが料理も出来るといいのによ」
「そんな無茶な」
「うそ、わりぃな」

櫂に当たっても仕方ないのだ。彼は彼の仕事を一生懸命やってくれているのだ。
「いえっ、したら清掃入るっす」
「おう、よろしく!おめぇの掃除評判良いぞ」
「マジっすか?!」
「おう、昨日お客さんに褒められた」
「やった!」と櫂がガッツポーズして喜んでいる。
大袈裟だと思ったが、彼にはそのくらい嬉しいことなのだろう。

去年暮れまで勤めていた、大型のホテルでクレームばかり聞く部署にいた彼にとっては。
人当たりが良く、腰も低いことが買われたらしい。でもそれは彼を幸せにしなかったのだ。

今年初めにうちに来た頃は緊張でいつもビクビクしていて、何にそんなに怯えてるのかと思っていたのだが、三ヶ月たった今では笑顔も増えて生き返ってきたようだ。

掃除機を持ってルンルン気分で部屋に入って行く櫂を見送りながら彼のような板前さんはいないものかと思った。
収入は半分くらい減ったはずなのにこうして頑張ってくれるのはありがたい。
一人者で、住み込みOKの人いねぇかな・・・と、そっと溜息を吐いた。

更新日:2014-04-30 11:55:58

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