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量子力学第二法則の慙愧

 彼女、池上優子(いけがみゆうこ)から私の家に電話があったのは、ちょうど二週間前の金曜日の夜だった。
池上女史とは小学生の時分からの知り合いで、社会人になってからは年賀状のやり取りがある程度の関係だったが、同窓会か何かの知らせだろうと、私は別段訝しむ事なく電話に出て会話を交わした。
『-もしもし、鱗木(りんぼく)君?私、池上だけど…覚えてる?』
「オカッパ頭の池上やろ?覚えてるよ。よぅ電話番号解ったな?元気か?」
 私が自分の事を覚えていた事に、彼女は安堵したようだ。少しだけ、声のトーンが明るいものへと変わっていく。
『だって鱗木君、年賀状のリターンアドレスに電話番号も印刷してあるでしょ?』
「そう言や、そうやな」
 我ながら、抜けた質問をしたものである。
「それで。急に電話なんか掛けてきて、どないしたんや?」
『う…うん、ちょっと言い難い事やねんけど―』
 途端に、彼女は言い難そうに言葉を濁すが、意を決したのか、私に訊いてくる。
『鱗木君って、アレよね?今でも、まだ変なモノが見えたりって…するのかな?』
 嗚呼、そっち方面の相談か―。私は彼女を傷付けない程度に、やや不機嫌そうに返事をする。中には居るのだ。テレビの怪奇番組に“昔の知り合いが…”と言って、人に断りもなく勝手に出演交渉をする不届き者が。そんな面白半分の電話だったら、すぐにでも切ってやろうと思ったのである。
「お陰で今も健在やけど、それが?」
『あっ、ごめんなさい。私、いきなりこんな事訊いちゃって。でも、鱗木君くらいしか私、相談する人が居なくて…』
 池上女史の声は、今にも消え入りそうだった。余程の事で困っているのだろう。
私は一つ溜息を吐いて、彼女の話を聞いてみる事にした。
「別に怒ってないから大丈夫やで。それより、大事な話があるんやろ?俺で良ければ、話聞くけど?」
 すると池上女史は、電話口で急に泣き出してしまったのだ。それで、その日は結局、話を聞く事が出来ずに後日、家の近くで待ち合わせて相談に乗る約束をしたのだった。
それが先週の水曜日の夜だ。お互い仕事が終わってから、彼女の家の近くにあるファミレスで、待ち合わせをしたのだった。
 お互い顔を合わせるのは、高校を卒業して以来だから、丸十二年振りだというのに、私も彼女もすぐに互いを見つけられた。見た目が若いというより私の場合は、人としてまったく成長をしてないという事か。池上女史も顔は殆ど変っていないが、学生の頃は牛乳の瓶底のような眼鏡だったのを、コンタクトに変えている。その方が化粧も生えるし、女性にはいいだろう。
彼女は、入口の前で立っていた私を見ると、手を上げて走り寄って来た。
「鱗木君!ごめんなさい、だいぶ待たせたかな?」
「いや、俺もさっき着いたところやし」
 先にノブに手を掛けて、扉を開けてやる私を見て、池上女史が小さく吹き出した。何だろう?と思い振り返る私に、彼女ははにかむような笑みを浮かべる。
「全然変わってないよね、鱗木君って」
「そうか?結構おっさん入ってきてるで?」
 店に入ると、時間帯が中途半端なせいか、待つ事なく席へと案内される。店員に禁煙席を告げる私に、彼女は驚いた様子だった。
「煙草、止めたんだ?」
「高校出てからすぐな。だって、勤め出したらガキやないからな」
「…普通は逆だと思うけど」
 そう言って、彼女は再び可笑しそうに吹き出すのだった。
メニューをテーブルへ置いた店員が、奥へ行こうとするのを軽く手で制し、私は池上女史へ訊く。
「晩飯、食って行くんか?」
「あ…、家で親がご飯作って待ってるから、私は珈琲だけでいい」
「じゃあお姉さん、珈琲ホット一つと、紅茶ホット一つ」
「-畏まりました」
 店員がメニューを持って立ち去ると、彼女が話を再開し始めた。
「本当、こうして面と向かってみても、変わらないよね」
「…人の事は言えんと思うけど?」
「ねぇ、知ってた?鱗木君って女子の間で、ダントツの一番人気だったのよ」
「…冗談」
「本当よ」
 彼女の目が悪戯っぽく光っている、どうやら私の反応を楽しんでいるらしい。
「嘘やろ?きっと自分らのグループだけやって。第一、バレンタインのチョコかて、みんな“義理”や言うてくれてたやんか」
「あれはねぇ、女子達の間で抜け駆け禁止の同盟を組んでたのよ。他の男子達からも聞いてなかった?」
 何という事だろう!知らなかったとはいえ、人生最大のモテ期を無駄にしていたなんて。男として、これほど悔しい事もないだろう。事実、私はたった今まで、自分が学生時分に女子から人気があるとは、露にも思っていなかったのだ。
「……俺の青春時代を、誰か返して欲しいよ」

更新日:2014-05-04 16:54:34

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