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必須要素:マフィン 制限時間:1時間

机に食いかけのマフィンが置いてある。

何が理由かは分からないが、行きつけの喫茶店が珍しく込んでいた。

俺と入れ替わりで出て行った一人客がいたらしく、店員の女の子に案内されたカウンター席の上にはまだ、カップや皿がトレイに載った状態で残っている。

その、皿の上に食いかけのマフィン。

側面を齧られたマフィンは原型を留めておらず、ハート型に削れていた。

「今片付けますので」

そう言って、女の子はそそくさとそのトレイを持っていく。その顔は別段なにも感情を読み取れず、決められた業務をただこなす事しか頭に無いようである。

彼女の様子に、何故か安堵を抱く自分が居た。

(だって、ほら。彼女に悪い虫が付いたら困るだろう)

自分が抱いた感情をなんとか誤魔化そうとしたが、どうやら失敗した。

(赤の他人に悪い虫が付いたからと言って、君が困ることなんて無いよ。そもそも、君はそんなに他人に情を移すような良く出来た人間だったかい)

日に日に、誤魔化せなくなる感情。

いい加減、自分を騙し切れなくなる。

好きでもないコーヒーを啜り、趣味でもない読書で時間を潰す。その行為を毎週土曜と日曜日、朝8時から9時までの間に続けているのは、彼女の顔を見るためだ。

(彼女に悪い虫がついて困るのは当然のことだ。だって君は、彼女のことが××なのだから)

内心の声に『五月蝿い!』と叫びたくなる。

(でも、そうだね。残念ながら、君こそが、その悪い虫に為っているのかもしれないね)

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」

布巾でカウンターを拭き、持っていた銀の丸いトレイからお冷とビニールに入ったお絞りを俺の前に置いた後、彼女は言った。

「ブレンドと・・・チョコチップマフィン下さい」

「ブレンドがお一つと、チョコチップマフィンがお一つですね。ご注文は以上でよろしいでしょうか」

「はい。お願いします」

「畏まりました。少々お待ちください」

軽くお辞儀をした後、彼女は足早にカウンターの奥に戻り、カップにコーヒーを注ぎ、ビニール袋に小分け包装されたマフィンを小さなショーケースの中から取り出し、プラスチックの四角いトレイ上の皿に載せる。ソーサーにコーヒーカップを載せ、同じくトレイに置くとそれを持って俺の方に戻ってくる。

トレイは俺の座るカウンター席に運ばれる。

「お待たせいたしました。ブレンドとチョコチップマフィンになります。ご注文の品は以上でおそろいでしょうか」

「はい」

「お冷のおかわり、灰皿のご所望はカウンターの店員にお申し付けください。失礼いたします」

マニュアル通りの接客台詞と一つのお辞儀の後、彼女はまた足早にカウンターの奥へ消え、食器洗いの作業に取り掛かった。

慣れない読書は、全く集中できない。ちらちらと彼女の後姿や横顔を覗き込むことに俺は一生懸命になっていた。

(これじゃあ、ただのストーカーか覗き魔だな)

またも、内心の自分が自分の行動を嘲笑する。

しかし、そうはいっても、自分にはこうすることでしか、この気持ちに折り合いをつける事など出来ない。

無理に話しかけるのは、彼女の仕事を邪魔することになるし、なにより彼女が迷惑がるかもしれない。

全てのアプローチが実を結ぶことなど無いことを俺はもう知っている。

(ハート型のマフィンを残す方がよっぽど健全的な行動に僕は思えるけどね。少なくとも、今の君よりは)

腕時計を覗き込むと、9時になっていた。

コーヒーを一気に飲み込み、お会計を済ませ、店を出る。

「いつも来て頂いて、有り難う御座います。又のお越しをお待ちしておりますね」

その一言で、舞い上がる自分を、誰かが笑った気がした

更新日:2017-02-12 15:23:10

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