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お題:残念な夏休み 必須要素:奴の小指 制限時間:2時間

俺は、とある小規模な建設関係の会社に勤めていた。

その会社は給料面には文句ないが、地方への出張が多く、プライベートの時間なんてものは有ってないようなものだった。

出張には必ず口五月蠅い上司の存在が付きまとい、仕事が終わっても接待のような飲み会がほぼ毎夜続く。

三時間の以上の残業は当たり前。ろくに仕事もしない上司は、特に忙しくなくても手当金欲しさに土曜、日曜は休日勤務を部下達にも強要。

それでは飽き足らず、仕舞いにはパワハラが跋扈する職場環境。

まるで、人間として扱われていることを放棄したような気分だった。

道徳的な考えなど、持ち合わせぬ非道な人間が幅を利かせている場所。

「まるで、猿山のようではないか」

出張が一段落し、都内に借りた安アパートに久々に戻った日。

テレビを見ながら、一人、晩酌を酌んでいると自然とそんな言葉が出た。

そうなのだ。俺が今居るのは猿山だ。

やがて、時間が経って、経験を積み重ねていったとしよう。

俺が成り果てるのは、あの猿山の大将だっていうのか。

想像して、ぞっとした。

金銭面では苦労していない。

独身で、趣味らしい趣味もない。金は貯まっていく一方だ。

しかし、それを差し引いても、今の環境に居続けていることは、一度しかない人生を棒に振る行為としか思えなくなった。

そう考えが至ってからは早かった。その日の内に退職願いを認め、次の日には直上の上司に手渡した。

上司はあっさりと、退職願を受け取り、その日のうちに二週間後の退職が決まった。

『俺はこれから、一人で生きていくのだ』

退職の挨拶を済ませて、アパートへの帰路の途中、電車に揺られながら、俺はそう思った。

しかし、冷静に考えてみれば、人間がたった一人で金銭的な需要を得るなんて事はそうそう出来ることではない。

そんな簡単に得られるのであれば、皆それを実行しているだろう。

それでも、俺はある幻想に取り付かれていた。

『プロ小説家になればいい』

しかし、その野望は実現事態が難しい。

前にいた会社の業種で起業する方が、まだ現実的でさえある。

たとえその野望が実現したとして、出版社という媒介を挟めば、それは『一人で需要を得た』ことにはならないのだ。加えて、辞めた会社と同じように、様々な人間と関わり、口うるさくダメだしを受けるのだろう。

会社を辞めて1年が経過したころ、無限にも感じていた貯金はついに尽きかけた。

その頃には、4作品書き上げて、各々の出版社が公募していた文学賞へと送りつけていた。

しかし、どれも箸にも棒にもかからず、一次選考すら通る作品はない。

当たり前のような現実が、当たり前に立ちはだかり、頭で分かっていた筈なのに、そのショックは俺の自尊心をこれでもかと傷つけた。

応募を重ねる度に、作品の質は間違いなく落ちている。

これ以上続けても、この行為に芽が出ることは内容に思えた。

俺はとんでもなく愚かな事をしてしまった。

どうしようもない、虚無感が俺を蝕んだ。

「いっその事、死んでしまおうか」

実家の両親から送られてきた、ハローワークの求人票を眺めながら呟く。

洗濯も碌にしていない着古したジャージに着替え、ふらふらと亡霊のような足取りで外へ繰り出す。

熱で人を殺しそうな日照りが、針のように目に突き刺さった。伸びっぱなしの揺れる前髪が簾のようである。

額から流れる汗が目に入り、前がぼやける。

それでも構わず歩く。

交通量が格段に増え、すれ違いざま子供の肩に自分の足が触れそうになった。

『なんだ、こんな昼間に子供が多いな』

額の汗を拭って、辺りを見回す。

『そうか、夏休みだ』

そこで非常階段が屋上へと続く、十数階建てのビルを見つけた。

思えば、長い夏休みのような日々だった。

『あそこにしよう』

ビルを探し当てる途中、ある看板が目に入った。如何にもいかがわしい用事を済ませる店のそれである。

『最後ぐらい、なけなしの金で散財してもよかろう』

ポケットには数枚のお札と小銭が入れてある。

万札が三枚あるのを確認して、その店へと入った。

店員に金を払った後、待ち時間なくすぐに個室へと案内された。

「こんにちは」

目の前に現れたのは若く、綺麗な女だった。

最後にこんな美女にお目にかかれるとは、思わなかった。

急に思い出したように心臓が激しく脈打ちだした。

『俺は、まだ生きていたのだな』

更新日:2017-07-02 00:02:16

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