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(10)2011年春、大江の場合

♪We haven,t had that spirit here since
nineteen sixtynine♪

懐かしいフレーズが、小さな商店街の店先に取り付けられた古びたスピーカーから流れ出ている。何故かしら大江の鼓膜を心地よく揺す振り、知らず知らずのうちに遠い記憶の中に誘ってくれる曲が何曲かある。この曲もその中の1曲だった。

大江はこの曲を耳にすると、心の落ち着き場所を求めて彷徨い続けていた頃の切ないほどの不安定さに包まれていた自分の姿が浮かんできた。いつどんな心境の時でもこの曲を聴くとそれはまるで早朝のぼんやりとした空気が、街の雑音が高まってくるのと同時に次第にはっきりとしてくるように彼の心の中にフェードインしてくる。

この意味不明な感傷スイッチは、一生ものだと大江は思う。ついでにこの曲以外に彼を不意打ちするセンチメンタルメロディーは、♪ユーガッタフレンド、♪ウィズアウトユー、の2曲だった。

恐らく同時期に3曲を聴いていたはずもないが、その時々で何らかの人生のエアポケットにするりと入り込んできたメロディーたちだった。通いなれた商店街でこの曲を聞くなんて、珍しいこともあるものだ。大江は東京の郊外にある小さな私鉄の駅前にある学習塾の講師をしていた。

60歳になっていた。そんな区切りを迎えようとしているこの時期、先週はずっと気になっていた神楽坂の街を久しぶりにぶらついた。大江は大学時代の4年間、細野のアパートのあった神楽坂の街で池谷や植木と一緒になって遊んでいた。

月並みな言い方がとても懐かしかった。しかし思い出の世界と現実の街並みは悲しいほど違っていた。時の流れは、惨い仕打ちを時として仕出かすものだと大江は改めて思った。

大きな建物は一部の建物を除き跡形もなく消え去っていたが、意外と思い出は街角の片隅に小さく目立たない光景の中に留まっていた。

古びた街路灯の鈍い灯り、しっかりと老舗の地位を築いたレストランの傷だらけのテーブルとイス、当時はとても大きく見えていた敷居の高い輸入品を多く並べていた小さなスーパー、思い出は様々の変化球となって大江に投げ込まれていた。

大江はそれだけでも十分に満足した。あの夜、神楽坂の街に来て本当に良かったと彼はしみじみと思った。

大江は世間的には、高齢者と呼ばれる入口に差し掛かっていた。大江は高齢者と呼ばれるこの時期まで、ずっと学習塾の講師をしていた訳ではなかった。そもそも大江は中学時代からの友であった植木、池谷、細野3人から遅れること2年後大学を卒業した。

大学に入る前に1年間学生浪人をして、大学入学後1年間留年生活を送った。だから3人から大江は2年遅れて社会に出て行った。1970年代後半、もう今から40年近くも昔の話だった。

大学を卒業してぶらぶらしていた大江に、彼が中学時代にお世話になった個人学習塾のW先生から暇なら塾の手伝いをして欲しいと声がかかった。社会の何処を捜しても自分のいるべき場所が見つからなかった大江は、W先生の手伝いをごく自然な形で始めることとなった。

取り敢えず大江はW先生のお蔭で、社会のほんの片隅に身の置き場所とやらを確保することができた。

W先生の自宅は大江の家から近くにあった。そのW先生の自宅の周囲の畑が次々に建売住宅に変わっていくに連れて、面倒を見ていく子供達の数も母親たちの口伝えで塾の評判が拡がっていくのと比例して増えていった。

そしてそのお蔭で大江は、W先生1人では大変になったので先生の手伝いをすることとなった。夕方から夜遅くまで、小学生から高校生まで、月曜日から日曜日まで、本当にW先生にこき使われた。

もっともW先生は大江自身の収入増のためと思っていたかもしれなかった。いずれにしても大江は良く動き回っていた。しかし数年後あっけなくW先生は病に倒れ、大江は生徒ごとそっくり学習塾を引き継ぐこととなった。

更新日:2016-12-21 09:25:51

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